もう自分の周りにSNSをやってる人がいない。
っていうのは嘘になるけど、この頃はAIのアルゴリズムなのか全く知らない人たちとよく知る人たちしか画面に出てこない。
どこに行ったんだろうか皆、元気に暮らしているのだろうか。よく見る人たちは元気にライフスタイルを提示しているし、同業だったりクリエイターも多いし、いいねって思うことも多々ある。
だがもしも自分がこういった職業をやっていなかったら、きっと昔の友と同じようにネットから消えていると思う。
多分、誰かにとっては私がそっち側なのだ。
私は本来インターネットが向いていない。
そんな気がしている。基本的に仕事の内容だったり自分のプロジェクトだったり、それ以外を公開していない今。簡単なプロフィールしか見せてない気がする。
あの頃遊び半分でやってたSNSも今は自分のブランディングのツールの1つだ。自分がどこにカテゴライズされるかも自分で”選んでる“つもり。いや、”選んでしまってる“のだ。
でもある時ふと思った、昔の友は今の俺をどう見てるんだろうと。
きっと対面で会ったら、変わってないっていう気もする。きっと昔よりも音楽で生きてるって思われてはいると思う。どっちも事実だ。
しかし、SNSでいつも見てるから久しぶりな気がしない、と言われるとそれは共感できない。
私は見れていないから、連絡が来るまで私の久しぶり!は更新されないのだよ。そしてまた、SNS更新してよとも思わない。
そういった会話が発生すると、得体の知れぬ寂しさがじわじわと心を蝕む。相手が悪いわけではない、時の流れ方が違うのを目の当たりにしてしまうからだ。
それは実のところ、多くの友人たちも同様だ。自分の更新が落ち着くと、誰かの活動が目に入ってくる。すると不思議と同じ1週間でも誰かの投稿は1ヶ月の量に感じたり、2日の量に見えたりする。きっと何かが澱んでいるのだろう。
時に心の花瓶から溢れ出る水が濁っているのに気付く。新しく入れ替えないと元気の苗は萎れてしまう。みんなあるよね、こういうこと。
だからこそ、メッセージだったりリアクションをくれる人たちは大事にしたい。励ましもツッコミも、全てが自分の生きる理由の1つになってる。
今の自分は今しかいない、と強く感じさせられる。
私は今のあなたたちを知りたい。元気に過ごしているだけで私も良い人生にしようと鼓舞される。美しい花を咲かせよう。例え歪に咲いてもいい、精一杯過ごしているその日々が紛れもなく美しいから。
2024年、”選ぶ“事をやめようと思う。
ありのままのクマガイユウヤをその都度そこに置いていこうと思う。
誰かの無意識に蝕まれず、誰かにとって何かのきっかけになれるといいなくらいのマイペースで行く。ネット向いてない気がするなりにね。
世界よ、どうぞお手柔らかに。
This is new Kumagaism.