時折時の流れを忘れる。そんな時はいつも程よく予定が埋まっていて、程よく時間がある。常に何かをしている人なので、何もしないを意識的に行わないと何かをしてしまう。
3月になると卒業式に出てたんだろうなーという人たちをちらほら見かける。あの姿を見るとあの日の自分を少し思い出す。そしてつい最近のように感じては、どこか遠くまで来ている気がして前を向いていくのであった。
路頭に迷った3月の記憶が結構鮮明に覚えてて、時々春先の香りでフラッシュバックしてはどこか安心する。まだ忘れてはならない感覚を確かめるように。
今までの人生の中で、自分はきっと生き急いでいるんだと感じてる一方で、やる事をやらないと前に進めないという葛藤に溺れていた。
ここ最近の自分は同じ状態にも関わらずどこか楽観的に考えていて、やる事はやる、それ以上に小さな達成を楽しみながらいこうと思うようになった。
前を向くことよりも足を進めることの方が大切だったあの頃、きっと答えを見つけることが自身の心のステータスになっていた。答えを見つけてはまた別の答えを、点を生み出しては線にすることも出来ないまま、ただひたすら増え続けるたくさんの答えという点を自分の経験にしていた。
不思議なものでその頃の記憶はあまりない。どうしたものか、あんなにも忙しそうにしていたのに時間もなければ記憶もない。
総じて、昔があったから今があるんだ、というのは簡単だけどだとしたらもう少し前に進ませて欲しかった。まあ全部自分の生き方のせいなんですが。
さっき書いたことだって、点を経験にしたってまあ平凡なことだと思うんですよ。そりゃそうじゃない?っていう事を言った訳なんだけれど、自分が常に考えてることっていうのはそこに重きがなくて。
点から始まることを行うのは最初だけでそれ以降は全て線で繋がる前提の点を経験する必要があると思ってる。つまり、どれだけ自分の人生の舵を自身できっていけるかに関心があるということ。その上で予期せぬものを受け入れ跳ね除け楽しむといった、人生の余白をしっかり生み出すことこそが人たらしめる事だと考えてるわけです。
こんな事を考えて生きていて大変だねという事を時折柔らかい言い方で言われる事があったけど、しょうがないよね。そっちの方が興味深いから。
こうして書き出すと結局のところ実際のアクションとのギャップが生まれて、クマガイという人間が見えなくなる瞬間があることもあった。どうしたって自分の美学が邪魔する時もあった。そんなことも今となっては全て自分のキャパシティの中でうまく考えられるようになってきた。
今ならこの人生の余白で遊びをきかせられるかもしれない。そんなふうに感じる3月の少し冷たい風にハタチの記憶の香りを感じて。
そして誰かの門出に祝いを。