Yuya Kumagaiのオフィシャルなブログ

ギタリストやカメラマンやロマンチストなどなどやってる熊谷勇哉による何気無いブログ。

正解はこれです

自身の原点に立ち返る時はいつも行き詰まったと感じている時でもある。

かと言って原点は何かを教えてくれるわけでもなく、見つめ直す度にどれだけ新しい視点を自身が持てているか、ということの確認に過ぎない。

正解があるのなら今すぐ知りたい。なんならあらゆる方法で早めに辿り着ける。でも現実はそう簡単に行くわけでもなく、答えのあるものにあまり深い興味を持つことが出来ないのも否めない。ゼロイチの人間の性。

結局、最適解を求めるそのプロセスが多角的であるほど、己の価値観を豊かにする。

 

答え合わせが出来るものは世の中に溢れているようで案外あんまない。ただ、溢れているように見せてる人たちはそれがきっと正解だとは思っていない気もする。答え合わせ出来ると思ってる側は、きっとそれらとは全く違う目線で自分の人生を豊かにしている。それぞれの立場でこんなにも違う。基本的にはそれでいいと思う。

 

その上でここ数年の気になることがいくつかある。

飽和した情報量の中で、ほんの一部の情報しか受け入れずに物事を判断する者が増えた。速度感が早まっていった結果、一つ一つへの興味が薄れていったことは生活に馴染んだコンテンツや社会状況によるものも影響してるのは間違いない。

何かを得るということは何かを失う、ちゃんとこの十数年が証明してる。でも、今の時代が悪いとかは実はそんなに思ってない。極論、自分の生活スタイルは自分で作ることでなんとかなる様にも感じるからだ。無意識下で行ってしまうことを極力なくして、自分の意志で生きていくことを目指す。

だからこそ、辛い思いをすることもあるし、貫いてよかったと思えることも多い。

多少世間とズレがあっても、マジョリティの答えを探し続けなくて良いというのは本来大事なことだけれど、まあなかなかそんなこと言ってられないくらいには蝕まれてる。それだけでなく、そういう生活ができるのはよっぽど意志の強さが半端じゃなかったり、下界から切り離された暮らしを営んでいる者でしかなり得ないというか。

 

自分はどうなりたいかが見えている今、こういった禅問答を繰り返す内に一瞬の閃きが自らを新たな景色へと導くので、つらつら書いてることはほんのひと息入れたくらいの話なんだけれど。

きっと昨今の情報過多もそうじゃない時代をまたいでるから精査して見ることができるし、自分は染まりたくても染まりきれないのでその分歯痒さ倍増。

なんやかんや正解が見えるものを知った上でその先をどう興味深いものに昇華できるかに生活を肥していければと思う。

禅問答の辛さゆえに得た景色でエンターテイナーとしての彩りを華やかに出来るのなら本望だ。

 

最後に自分が唯一知ってる正解を紹介して駄文を締めようと思う。

攻略本なんて当てにならない。

 

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オアシスは、もう

新幹線で吸うタバコが好きだった。

開閉ボタンを押す度に無機質だけど陽気な音楽が流れるのも案外退屈しなかった。

特別思い入れがあった訳ではないけれど、あの小さな小窓を眺めていると、短編映画のワンシーンの様でいつもより口数が減る。

 

もっと前は座席でも吸えたそうだけど、僕はその時代を微かに覚えているくらいで、小学生くらいの時には禁煙って文字が目に付くようになったのを今でも思い出す。

吸いたくて仕方がないから、というわけでもなく何となく、旅先に向かっているんだなというのをまず初めに感じる瞬間があの狭い喫煙ブースだった。

見知らぬ人同士、肩身狭そうに小声で「すみません...」と話すのもまたいとおかし、最初で最後の会話を「どうも...」ってさり気なく交わしたりなんかして。

お互いどういう目的でどういう職かも知らないけれど、あの空間にいる2、3人の間には暗黙の了解が必ずあって、互いに喫煙者としての立場を励ましたりなんかしていた様にも感じるほどには、皆何処となく顔が険しかった。

知り合いとその場所にいれば、そこに人が入ってくると会話を止めてはまたゆっくりと話し出す。不思議な時間が流れていたんだと今実感する。

 

いざ、新幹線内に入るとルーティンってのは発動するもんでとっさに探してしまうけれど、お前はもうそこにはいない。ハッとすれば、代わりに便所に行きたくなるのは喫煙者のみが自覚する呪いのようなものかもしれない。

 

今、新大阪行きの新幹線に乗りながら記している。正直早く我がオアシスに行きたくて仕方がない。でも、その分こうして記事を書けているのだから良い暇つぶしを得たのかもしれない。

結局の所、たまーに乗る新幹線の喫煙ブースというのが新鮮だったし、無くなったからと言って駅で吸えなくなるわけでもないから、大したことではない。他の喫煙所では体験出来ない何かがあった、ただそれだけ。

僕はその「たまーに乗る新幹線の喫煙ブースでなんとも言えない険しい顔をしながら、実は何を考えてるわけでもなく車窓の先を見つめる人」ってのが大変いとおかしだったので好きだった。

 

きっともう戻ることのない喫煙ブースに想いを馳せて。いやいや、これで良かったんだと思う。

タバコを好きで吸ってる人間のみが知るこの情緒溢れる瞬間はこれからもっと無くなっていくかもしれない。

でもきっとこの感覚は忘れることはない気がする。旅人であり続ける限り、また別のところに見つけられるそんな気分。人生の暇つぶしと言うにはそんな大層なものでもないんだけれど。

 

ああ、早く着いて1本吸わせろください。

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無趣味で何が悪い

僕は多趣味なふりをした無趣味人間な気がしてきた。

 

好きな事を仕事にするってYouTubeの広告で語るのを見て、そうそうこれだよなって思った10年前ほど、きっとまだ自分のやることなす事が趣味だったのかもしれない。

好きになったことはとことん好きになる。人並みよりはオタク気質ではある。自分の好きなもので生活を成そうと思うとある程度実現できてしまうくらいにセンスを持っている。(自分調べ)

 

今も好きな事を仕事にするって気持ちは変わらないけれど、仕事にしたらしたでまた趣味がなくなっていくもどかしさ。趣味を仕事に出来るって才能の1つとは思うけど、それでもプロフェッショナルを深めるにはそれらが増えれば増えるほど困難を極める。止まらない好奇心は新たな趣味を見つけて、ある程度習得して、またそれを仕事にしようと思えばそこそこなってしまう。もしかして欲張りなのだろうか。

 

音楽は好きで続けていたら今では仕事で弾くようになった。

写真は元々自分の目線を知るために始めて今では誰かの為にもシャッターを切るようになった。

映像も頭の中を具現化させたくて始めて今では少しだけど人のイメージを具現化させることもやるようになった。

デザインも自分でそこそこやれるようになった。

なんかこれを見ると色々出来て良いなーって思うんだけど、人々の言う大成するってことには程遠いなといつも感じる。

 

僕は銭湯が好き。比較的何も考えずに過ごせて心地いい。町の銭湯も豪華なスーパー銭湯もそれぞれ良さがあって好き。そしてこれは趣味。

コーヒーを楽しむことも好き。ペーパーメインで自分でドリップする。それぞれの珈琲店の焙煎やスペシャルティコーヒーの奥深さを勉強しながら、香りや味を存分に楽しむ、そしてそんな時間が好き。

車の運転が好き。いろんな道にいろんなリズムがあって、路面の状態とかすれ違う車だったり、知らない人たちに出会えるようで好き。何より車を運転している時は他に考えなくて良いのも良き。

あれれ、全部無心になれて細やかな違いを楽しめるものばっかりじゃない?今自分で書いてて思ったわ。

いいように書いてるけど、その時間が好きっていうだけじゃない?もしかして、そういう類いの体験が出来るもので見つければいいのでは?

なんだ簡単なことじゃないか。今までハマったものを全て考えたら全部そういうことじゃないか。きっと他の人たちのもそういったことを趣味としてあるんだな。

 

じゃあ、仕事にしてしまったらこれらの感情も価値観も違うものに変わったしまうのだろうか?

人によってはそういうタイプも多くいて、よく見かける。けれどもそのスタンスを持っているからこそプロフェッショナルとして生きていけてるのも事実。

僕はそういった生き方よりも、好きなものの延長でプロとしてのプライドを持ち合わせながら飄々と世界を少しばかり変えたい。結局多くの人たちが目指しているところと何ら変わらないかもしれないけど、最終的にはこのクマガイのムーブメントをみんなに楽しんでもらえるような生き方をしたいね。

 

多分、自分の人生を生き抜くことが趣味でもあるのかもしれない。とか上手いこと言えずに今回は締め括ります。

無趣味に生きる趣味な人間の話でした。

 

 

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春の匂い

時折時の流れを忘れる。そんな時はいつも程よく予定が埋まっていて、程よく時間がある。常に何かをしている人なので、何もしないを意識的に行わないと何かをしてしまう。

 

3月になると卒業式に出てたんだろうなーという人たちをちらほら見かける。あの姿を見るとあの日の自分を少し思い出す。そしてつい最近のように感じては、どこか遠くまで来ている気がして前を向いていくのであった。

路頭に迷った3月の記憶が結構鮮明に覚えてて、時々春先の香りでフラッシュバックしてはどこか安心する。まだ忘れてはならない感覚を確かめるように。

 

今までの人生の中で、自分はきっと生き急いでいるんだと感じてる一方で、やる事をやらないと前に進めないという葛藤に溺れていた。

ここ最近の自分は同じ状態にも関わらずどこか楽観的に考えていて、やる事はやる、それ以上に小さな達成を楽しみながらいこうと思うようになった。

前を向くことよりも足を進めることの方が大切だったあの頃、きっと答えを見つけることが自身の心のステータスになっていた。答えを見つけてはまた別の答えを、点を生み出しては線にすることも出来ないまま、ただひたすら増え続けるたくさんの答えという点を自分の経験にしていた。

 

不思議なものでその頃の記憶はあまりない。どうしたものか、あんなにも忙しそうにしていたのに時間もなければ記憶もない。

総じて、昔があったから今があるんだ、というのは簡単だけどだとしたらもう少し前に進ませて欲しかった。まあ全部自分の生き方のせいなんですが。

 

さっき書いたことだって、点を経験にしたってまあ平凡なことだと思うんですよ。そりゃそうじゃない?っていう事を言った訳なんだけれど、自分が常に考えてることっていうのはそこに重きがなくて。

点から始まることを行うのは最初だけでそれ以降は全て線で繋がる前提の点を経験する必要があると思ってる。つまり、どれだけ自分の人生の舵を自身できっていけるかに関心があるということ。その上で予期せぬものを受け入れ跳ね除け楽しむといった、人生の余白をしっかり生み出すことこそが人たらしめる事だと考えてるわけです。

こんな事を考えて生きていて大変だねという事を時折柔らかい言い方で言われる事があったけど、しょうがないよね。そっちの方が興味深いから。

こうして書き出すと結局のところ実際のアクションとのギャップが生まれて、クマガイという人間が見えなくなる瞬間があることもあった。どうしたって自分の美学が邪魔する時もあった。そんなことも今となっては全て自分のキャパシティの中でうまく考えられるようになってきた。

今ならこの人生の余白で遊びをきかせられるかもしれない。そんなふうに感じる3月の少し冷たい風にハタチの記憶の香りを感じて。

そして誰かの門出に祝いを。

 

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トカゲの歩み

淀みなく歩み続ける事、繰り返す事、受け入れる事。言葉にすると難しく感じるけれど、実際は至ってシンプル。とはいえこれを行う事が1番難しい。

 

変化に敏感になれば、どのように変わっていくかの精密さが気になってきて、変化を気にし過ぎなければ、経過の速度が気になってしまう。

コンプライアンスについてだって同じように気にし過ぎだったりする。謙遜の態度が相応じゃない時がある。

 

そういった感覚がありとあらゆる所で発生する自分の感性があまり好きではない。好きではないし、面倒くさい。

人はこれをプライドと一言で片付けてしまうけれど、自分は片付けられない。片付けられない自分も神経質で好きじゃない、というか面倒くさい。

どこかのアーティストじゃないけど、実名の自分は死んだ、アーティストの自分が生まれたみたいな事を考えていないとどうにかなってしまいそうで苦しい時期があった。けれども、それこそ自分の神経質な部分の表れというか結晶ではないか。ああ、好きじゃない、めんどい。

 

そう、私は自分を捨てたくて仕方ない。

 

そんな私には毎年密かに安心する瞬間、年越しの瞬間だけは特別地味に喜ばしい。

何をするわけでもないが、年を越しても変わらない日常を感じながら、自分自身で変化を求めないと変わっていけない事への喜びに気付く。強制的にリセットする。背負うものは背負って要らないものは手放す。ああ、なんて不器用なんでしょうか。

 

とはいえそんな自分を愛していないわけではない。

むしろ可愛がっている。憧れる人物像を追いかければ追いかけるほど、簡単にそうはなれない事への気付きだったり、真逆を歩んでいたり。なんてめんどいヤツなんだ。

不完全な自分を横目に去年に置き去りにして行く。そうしてまた来年も今年の不完全な自分を置き去りにする。生き絶えるその日まできっとその不完全さに執着しながら暮らしていくのだろう。

 

そう、私は自分を捨てるのが怖かった。

変わっていく自分を受け入れる勇気が足りなかった。限界ギリギリの所で自我を持ってしまう。こんだけ生きづらそうな事を書き連ねておいてビビってただけなんすよ〜ってのも本当に情けないけど、恐らく本当のこと。

なので2024年は限界ギリギリを突破したい。そして不完全な自分を自分だと認めながら置き去りにしたい。面倒くさい自分に素直になれと告げていきたい。

 

この前トカゲを見かけたんだけど、もしかしたらあれはトカゲではないのかもしれないけど、脱皮の跡があった。こんな時期に冬眠しないで活動してるのは心配ではあったけれど、何故だか自分に姿を重ねた。

不器用でも神経質でもいいから、頑張って生きてくれ、としばらくヤツを見つめると、こっちになんとも言えない顔を向けたと思えば一瞬で隙間に消えて行った。

多分お互いにビビってんじゃねぇぞって言ってた。って言いながらビビりムーブしてた気がする。

そんな俺はいつになったらトカゲに触れるようになるのだろうか...。なんてね。

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傘をさしたがらない

雪の日、私は傘をさしたがらない。

昔見た洋画の主人公がそうだったから。ミーハーな所がある。でもなんだか切なげながらも血流がじんわりと巡っている様な気がして良かったのだ。

傘をさしなさいと言われて育ってきた。理由は簡単で、雨は大気の汚れを含んでいるから。今となってはちょっとばかし濡れたところでどうって事ない。

傘をささないために、地域性を引用したこともあった。なんとなく正当化したくなった。とは言っても、誰かに迷惑を掛けてるわけでもないので、心のどこかで寂しい気持ちになった。

 

私たちは常に理由がなければならない、という社会に生きがちだ。常に葛藤してる。かっこいいから、なんか良いから、それで片付けても良いじゃないかと。でも私はそうあっても良いと思う一方で、芸術の仕事は解像度の高さが必要になる。というか生きていると解像度の高さが豊かさに繋がることばかり。やっぱり理由は必要なのだろうな。

 

最近読んだ恋愛漫画の中に、好きな気持ちに理由なんていらないでしょ!そんなのわかんないよ!みたいなのがあって、わかるーとか思った。とか言いながらもいざその立場だったら、御託を並べても嘘っぽくなってしまうから同じように言ってしまうかもしれない。

みんな理由やトリックを知りたがるのに、説明すると急に嘘っぽくなったり説得力がなくなるのは何でなんだろう。色んな人たちと出会ってきて、答えだけ聞いて次に行くみたいな、こういう人本当に多かった。

 

どうしたら私の傘をさしたがらないを理由がなんか好きで納得してもらえるのだろう。

表情だろうか、これは任せてほしい。とびっきりの顔で伝えます。

声色だろうか、これも任せてほしい。とびっきり哀愁醸し出します。

話すスピードだろうか、任せてくれ。緩急つけます。

でもこれって口語の時限定過ぎてここでは伝えきれない。そもそもそんなに熱弁したいわけでもない。こんなことに興味を持つ人も少ない。私は傘をさすと天地がひっくり返るなんて重大な十字架を背負ってるなんてこともない。

 

どうしてここまでこの話を引っ張ってるのだろう。

単に雪が好きだからってだけなのに。

東京生まれにとって、東京の雪は特別なだけなのに。

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アウトオブ眼中

アニメの頭文字Dを観ていてあの熱さに共感せずにはいられなかった。MFゴーストは勿論、自身に向き合っていく地味さと泥臭い情熱は私の目に美しく映った。

向上心は大事、でも本質的に他人と比べてはならない。ものすごい矛盾を孕んだこの構図は、強くなる為に必要だと思う。

思い浮かぶ素敵な人たちは皆それで、何をするにも比べることはない。自身の中で闘ったものに対する評価を他人なりに純度高く見抜く。そりゃその人たちの周りには素敵な人が集まるわけだ。

アニメでも主人公はバトルの最中でも進化していき、レースが終われば勝ち負けの話には深く拘るという感じでもなく、自分と向き合った結果を回想する。自分がしたい車の走りを追求していた。いち走者としてから始まり、チームに所属したタクミはチームのために、そして己の為に結果を出す。

現実世界でなかなかこのレベルで考えられる人ってそうそういない気がしてて、私はこの純度を目指したいと常々考える。ただその為に上げた思考レベルも知識も時々足枷になる瞬間があり、自らの未熟さを痛感してやまない。でっかくなりてぇ、ただそれだけなのに。

 

世の中のゴシップなニュースがネットを通じてたくさん流れてくる。この十何年でその質や量もだいぶ変化した様に感じる。

ネットの意見というのはあくまでもネットをやっている人たちの中で生まれているもので、本来は一億人以上いる中の何%の中でも限られた数%でしかない。しかし私たちはそういった情報を5つとか見るだけでも、ちょっと話題になってる様に感じてしまうもの。その連鎖が風潮を作っていって、無意識に自らで生き辛い世の中にしてしまっていく。

 

私は素敵な人に出会いたい。出会う為に自身を磨いていきたい。その為にはこれが良いだのこれがダメだのを極力聞き分けたい。誰かがやっている事が間違っていたら、責任を持てる形で伝えたい。自分と出会って素敵になってくれるような人間を信じたい。

たいそうな事を言ってしまっているけれど、シンプルな話、良い考え方をシェアし合えるコミュニティーでありたいっていうのが全て。

その中でも私は、主人公の藤原拓海のように純度高く己と向き合いながら、受け入れる懐を持ち、強くなりたいという情熱と共に、その姿を周りの人たちにお裾分けしていけるようになりたいんだ。

 

今日も今日とて、観ていたら車を走らせたくなった。そんな事に物思いふけてみた。外寒過ぎ。

 

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