平成5年
過去に全て置いてきた、と考えていた。自分にとってこれは当時、生まれ変わるための1文であった。これがそれまでの自分にとっての救済というか、お札というか、お守りにしては随分と強気で脆いものだった。
この歳になってからまた少しずつ眼差しの奥を尖らせるようになった。もういつでも闘える、そんな気分で自分の道を掘り進めるようになった。結果どうだろう、自分は少しずつ何かを退けては何かを強く受け入れて、そしてまた媚び売らず尖ららせて行くことに美学を見出すようになった。まだ表に出せていない一面や、作品たちなど、くすぶらせない為の必至の抵抗とそして新しい自分探しとでも言おうか。結果的に何が生まれるかについては未だに分かりはしないが、得られるもの全てを受け入れる準備は怠らないでいようと強く誓っていた。
その景色を見たものにしかわからない世界ってのがある。
私はこの現代社会において強く生きる為に己を鍛え上げてる存在をある種の戦士と呼ぶ。戦士たちはどこか常に先を見つめては過去も今も受け入れる。受け入れるというより受け入れる為の器を大きくして待ち構えている。そういった人々と対等にいる為には己の戦士を都度都度ブラシュアップさせては何かの負けを糧にしている。私はどうだろうか。道半ばの人間の構えはカッコついているだろうか。思ったよりも孤独に押しつぶされそうになっても、自分自身という敵は手加減をしてくれない。そして、その時が来るまでニヤニヤしてこっちを見てくるだけなのだ。
そんな風にして生きてきたこの半生、簡単には変えられない。やんわり年齢と共に変わっていったものとは異なるもっと核となるもの。戦士になりたかったのは望んで目指したことだったはずなのに、強くなれば大きく迫るもう1人の自分。不思議と嘆くことも出来なかった。
私の中には武士道の精神とまではいかないかもしれないが似たようなものがある。強さとは、仁義とは、愛することとは、全てが私を私で居させていくれるものなのかもしれないと最近知った。
戦わなくていいんだよ。
そう言われた時にどうしていいか分からなくなってしまった。戦わないで戦うとは何か。いや、戦わないでどう生きていくのか。戦おうとすること自体がこの時代の生き方を生んでいるのか。そもそも戦っている自分に安心したいだけなのか。一瞬で駆け巡ったけれど、力だけがスッと抜けていった。なぜだか込み上げてくるものがあり、泣く気持ちになったけど涙は出なかった。心は泣きじゃくってしまった。
孤独という名の自分自身という敵は本当は仲良くすることが出来るのかもしれない。憑依じゃないけどそんなイメージで思い浮かべたらどうして今までそうしなかったのかと思えた。不器用が起用を目指した結果さらに不器用になってしまったみたいに。昔の自分に笑われないように生きているつもりでこっそり笑われていたのかもしれない。まあ、案外それも悪くないかもしれない、今なら笑い返せる気がする。
そう思えるくらいには、何かハッとさせられたというか、愛されること、そして愛すること、自分にとってもっともっと深く考えていかなければならないことについてシンプルに相対出来る気がした。
もうこれはどこかで自分自身を認めてあげたほうがいいんだろうなと考えられるようになった。もう一度原点に帰って、過去をもう一度取り戻してめいいっぱい抱きしめる。ただそれだけでいいのかもしれない。
今が大事という言葉の本当の意味は刹那的なそれではなく、生きてきた地続きの大陸をこの手のひらで感じながら前を向く為のおまじないなのかも知れない。
私にとっての平成は終わらなくてもいい。この時代に生きている限り。

Next Level
俺は奇跡を信じないたちだ。
奇跡的なという言葉を使うのは好きではなくて、あまり適切ではなくて、自らが選んだルートに確かな価値を持たせたいと常々思ってる。
例えそれが予期せぬものであっても、自分で向かっていった不明瞭に心躍らせている。
先が見えない物事を恐れなくなったのは最近の事で、良いも辛いも随分と楽しめるようになってきた。きっとこれを10代20代からやってきた人たちは今更どうしたとなる訳だが、俺には色々合間って無理があった。
ちょっとだけ色々分かるようになってきた今が1番楽しいのは決して馬鹿騒ぎする為なんかじゃなくて、誰かの時間の中に自分を関わらせてもらえる喜びと、予期せぬ出来事が織りなす互いの感覚の共有が確かな証拠となるような気がしてる。
先日最も会いたかった人に会った。それは本当に人生の全てが肯定された様な深い喜びを感じた。
同時に自分は音楽を続ける理由が、どこに向かおうとしてたか忘れてしまう程の理由が出来た。俺は自分を信じて良いのだと強く感じた。信じているつもりだったこの感覚はより深い所にそれを置ける様な気がした。
自身が今表現出来ることの先に何があるのか、その自分史至上最も予測の出来ない未来になったことが、否、予測なんて野暮なことはもうやめてしまえるくらい研ぎ澄まされたんだ。
自分が選んだ未来、そして自分が出会った未来を愛したい。過去は愛せないが感謝してる。
正直、今が1番楽しい。今まで培ったこともこれからやらなきゃいけないことも今からでも立ち向かえるほどのエネルギーを有している今だからこそ。
春の朝焼けを吸い込んで心の火を燃やす。また奇跡とやらに出会うために。

無趣味で何が悪い
僕は多趣味なふりをした無趣味人間な気がしてきた。
好きな事を仕事にするってYouTubeの広告で語るのを見て、そうそうこれだよなって思った10年前ほど、きっとまだ自分のやることなす事が趣味だったのかもしれない。
好きになったことはとことん好きになる。人並みよりはオタク気質ではある。自分の好きなもので生活を成そうと思うとある程度実現できてしまうくらいにセンスを持っている。(自分調べ)
今も好きな事を仕事にするって気持ちは変わらないけれど、仕事にしたらしたでまた趣味がなくなっていくもどかしさ。趣味を仕事に出来るって才能の1つとは思うけど、それでもプロフェッショナルを深めるにはそれらが増えれば増えるほど困難を極める。止まらない好奇心は新たな趣味を見つけて、ある程度習得して、またそれを仕事にしようと思えばそこそこなってしまう。もしかして欲張りなのだろうか。
音楽は好きで続けていたら今では仕事で弾くようになった。
写真は元々自分の目線を知るために始めて今では誰かの為にもシャッターを切るようになった。
映像も頭の中を具現化させたくて始めて今では少しだけど人のイメージを具現化させることもやるようになった。
デザインも自分でそこそこやれるようになった。
なんかこれを見ると色々出来て良いなーって思うんだけど、人々の言う大成するってことには程遠いなといつも感じる。
僕は銭湯が好き。比較的何も考えずに過ごせて心地いい。町の銭湯も豪華なスーパー銭湯もそれぞれ良さがあって好き。そしてこれは趣味。
コーヒーを楽しむことも好き。ペーパーメインで自分でドリップする。それぞれの珈琲店の焙煎やスペシャルティコーヒーの奥深さを勉強しながら、香りや味を存分に楽しむ、そしてそんな時間が好き。
車の運転が好き。いろんな道にいろんなリズムがあって、路面の状態とかすれ違う車だったり、知らない人たちに出会えるようで好き。何より車を運転している時は他に考えなくて良いのも良き。
あれれ、全部無心になれて細やかな違いを楽しめるものばっかりじゃない?今自分で書いてて思ったわ。
いいように書いてるけど、その時間が好きっていうだけじゃない?もしかして、そういう類いの体験が出来るもので見つければいいのでは?
なんだ簡単なことじゃないか。今までハマったものを全て考えたら全部そういうことじゃないか。きっと他の人たちのもそういったことを趣味としてあるんだな。
じゃあ、仕事にしてしまったらこれらの感情も価値観も違うものに変わったしまうのだろうか?
人によってはそういうタイプも多くいて、よく見かける。けれどもそのスタンスを持っているからこそプロフェッショナルとして生きていけてるのも事実。
僕はそういった生き方よりも、好きなものの延長でプロとしてのプライドを持ち合わせながら飄々と世界を少しばかり変えたい。結局多くの人たちが目指しているところと何ら変わらないかもしれないけど、最終的にはこのクマガイのムーブメントをみんなに楽しんでもらえるような生き方をしたいね。
多分、自分の人生を生き抜くことが趣味でもあるのかもしれない。とか上手いこと言えずに今回は締め括ります。
無趣味に生きる趣味な人間の話でした。

春の匂い
時折時の流れを忘れる。そんな時はいつも程よく予定が埋まっていて、程よく時間がある。常に何かをしている人なので、何もしないを意識的に行わないと何かをしてしまう。
3月になると卒業式に出てたんだろうなーという人たちをちらほら見かける。あの姿を見るとあの日の自分を少し思い出す。そしてつい最近のように感じては、どこか遠くまで来ている気がして前を向いていくのであった。
路頭に迷った3月の記憶が結構鮮明に覚えてて、時々春先の香りでフラッシュバックしてはどこか安心する。まだ忘れてはならない感覚を確かめるように。
今までの人生の中で、自分はきっと生き急いでいるんだと感じてる一方で、やる事をやらないと前に進めないという葛藤に溺れていた。
ここ最近の自分は同じ状態にも関わらずどこか楽観的に考えていて、やる事はやる、それ以上に小さな達成を楽しみながらいこうと思うようになった。
前を向くことよりも足を進めることの方が大切だったあの頃、きっと答えを見つけることが自身の心のステータスになっていた。答えを見つけてはまた別の答えを、点を生み出しては線にすることも出来ないまま、ただひたすら増え続けるたくさんの答えという点を自分の経験にしていた。
不思議なものでその頃の記憶はあまりない。どうしたものか、あんなにも忙しそうにしていたのに時間もなければ記憶もない。
総じて、昔があったから今があるんだ、というのは簡単だけどだとしたらもう少し前に進ませて欲しかった。まあ全部自分の生き方のせいなんですが。
さっき書いたことだって、点を経験にしたってまあ平凡なことだと思うんですよ。そりゃそうじゃない?っていう事を言った訳なんだけれど、自分が常に考えてることっていうのはそこに重きがなくて。
点から始まることを行うのは最初だけでそれ以降は全て線で繋がる前提の点を経験する必要があると思ってる。つまり、どれだけ自分の人生の舵を自身できっていけるかに関心があるということ。その上で予期せぬものを受け入れ跳ね除け楽しむといった、人生の余白をしっかり生み出すことこそが人たらしめる事だと考えてるわけです。
こんな事を考えて生きていて大変だねという事を時折柔らかい言い方で言われる事があったけど、しょうがないよね。そっちの方が興味深いから。
こうして書き出すと結局のところ実際のアクションとのギャップが生まれて、クマガイという人間が見えなくなる瞬間があることもあった。どうしたって自分の美学が邪魔する時もあった。そんなことも今となっては全て自分のキャパシティの中でうまく考えられるようになってきた。
今ならこの人生の余白で遊びをきかせられるかもしれない。そんなふうに感じる3月の少し冷たい風にハタチの記憶の香りを感じて。
そして誰かの門出に祝いを。

心の花瓶
もう自分の周りにSNSをやってる人がいない。
っていうのは嘘になるけど、この頃はAIのアルゴリズムなのか全く知らない人たちとよく知る人たちしか画面に出てこない。
どこに行ったんだろうか皆、元気に暮らしているのだろうか。よく見る人たちは元気にライフスタイルを提示しているし、同業だったりクリエイターも多いし、いいねって思うことも多々ある。
だがもしも自分がこういった職業をやっていなかったら、きっと昔の友と同じようにネットから消えていると思う。
多分、誰かにとっては私がそっち側なのだ。
私は本来インターネットが向いていない。
そんな気がしている。基本的に仕事の内容だったり自分のプロジェクトだったり、それ以外を公開していない今。簡単なプロフィールしか見せてない気がする。
あの頃遊び半分でやってたSNSも今は自分のブランディングのツールの1つだ。自分がどこにカテゴライズされるかも自分で”選んでる“つもり。いや、”選んでしまってる“のだ。
でもある時ふと思った、昔の友は今の俺をどう見てるんだろうと。
きっと対面で会ったら、変わってないっていう気もする。きっと昔よりも音楽で生きてるって思われてはいると思う。どっちも事実だ。
しかし、SNSでいつも見てるから久しぶりな気がしない、と言われるとそれは共感できない。
私は見れていないから、連絡が来るまで私の久しぶり!は更新されないのだよ。そしてまた、SNS更新してよとも思わない。
そういった会話が発生すると、得体の知れぬ寂しさがじわじわと心を蝕む。相手が悪いわけではない、時の流れ方が違うのを目の当たりにしてしまうからだ。
それは実のところ、多くの友人たちも同様だ。自分の更新が落ち着くと、誰かの活動が目に入ってくる。すると不思議と同じ1週間でも誰かの投稿は1ヶ月の量に感じたり、2日の量に見えたりする。きっと何かが澱んでいるのだろう。
時に心の花瓶から溢れ出る水が濁っているのに気付く。新しく入れ替えないと元気の苗は萎れてしまう。みんなあるよね、こういうこと。
だからこそ、メッセージだったりリアクションをくれる人たちは大事にしたい。励ましもツッコミも、全てが自分の生きる理由の1つになってる。
今の自分は今しかいない、と強く感じさせられる。
私は今のあなたたちを知りたい。元気に過ごしているだけで私も良い人生にしようと鼓舞される。美しい花を咲かせよう。例え歪に咲いてもいい、精一杯過ごしているその日々が紛れもなく美しいから。
2024年、”選ぶ“事をやめようと思う。
ありのままのクマガイユウヤをその都度そこに置いていこうと思う。
誰かの無意識に蝕まれず、誰かにとって何かのきっかけになれるといいなくらいのマイペースで行く。ネット向いてない気がするなりにね。
世界よ、どうぞお手柔らかに。
This is new Kumagaism.

記事を投稿しました

さて、やってまいりました。不定期投稿過ぎるオフィシャルブログ執筆者ことクマガイです。
今回の話題は特に無くて、とにかく文章を投稿したいという不純な気持ちで書き始めました。この記事の行先はいかに!とまあかなり調子の良いことを言っているイントロダクションではありますが、文章を書く機会があったのでその気運が高まっているのです。じゃあ何か書きたいことがあるかといえば、めちゃめちゃある。前回が去年の初夏で止まっているからね!そりゃもうたくさんありますよ。しかし有難いことに色んな事に取り組ませてもらっている間にそちらに夢中になってしまったんですね。あれもこれも素敵なことばかりの2022年でございました。
さて、と言ってみたものの、ここまで300文字くらいを無駄にしている割にはただの世間話で、かつ何かに繋がる気配を残して何も無い。すみませんね、次からちゃんと書きますから!次から!っていう割に3日坊主になるのもすでに見えてますよね。宿題はギリギリにやるタイプ、否、やれないことのが多い者でしたんで、一周回って開き直っちゃうわけです。そんな開き直りを始めた矢先の文字書きはものすごいもので、あれよあれよと軽々書いてしまったのです。文章書くのって楽しいというランナーズハイによってアドレナリンが爪の間から滲んで滲んでたまらんのですよ。するとどうです、今も500字を過ぎた辺りなのに一向に本題に入らず、我が物顔でそこのけそこのけお熊が通るのですよ。こりゃもうこのブログに辿り着いた人たちは遂にいかれちまったかと!大丈夫、安心してください、初めからです。まともならこんな文章で話題転換の一つもないまま書けないでしょうに。そもそもどうしてこんなことをしてまで文章を投稿したかったのかって?きっかけが欲しかったんです。自分がブログを書くことが好きなのについついサボってしまうというか、とにかくどうでもよくなってしまう。そういう事ってみんなもありますよね、これやらなきゃあれやらなきゃ。やらなくても問題ない事ばかりやりたいなーなんて思ってしまったりしますよね。それをここでやってるだけです、っていう記事を投稿しただけですっていうね、
今回の記事の10倍の文字数を今朝書き上げました。近々お知らせできると思います。
そしてこのブログも緩やかに正式に稼働させていきます。
それではクマガイユウヤ(23'ver.)でした。

Life is the placebo
THE NAAV-Placeboをリリースしてもうすぐでひと月。
たくさんの方々に聴いて頂けて嬉しいし、曲も喜んでると思います。
リリースに向けて、今回はセルフプロデュースで少しせかせかしながら制作しておりますが、着々と出来上がってますので、どうかやんわり楽しみにして頂けたらと思います。
さて、この曲を制作した時の裏話的なものを少し書こうかと思います。
皆さんは人生のターニングポイントを幾つぐらい通ったと思いますか?
僕はわりかし定期的にそのタイミングを通過している気がしていて、まさに去年の夏がそれでした。
所属していたバンドを抜けて、その仲間たちとも共に音楽をやらなくなってしまい、心のどこかではもしかしたら自分の音楽人生が1からのスタートになるんじゃないかと、仕事としての音楽を続けられなくなる覚悟を受け入れました。
そういった当時の現状を受け入れて尚、僕は音楽を続けたいという気持ちが強く、静かに自身と闘っていたように記憶しています。
幸いお仕事が無くなることはなく、新しい人たちとの出会いによって、今まで生きながらえているわけですが、これは自分自身のお陰とは考えていなくて、僕の音楽を必要としてくれる人たちのお陰だと思ってます。
そんな中、もっと自分らしくありたい、という思いを抱きながら迎えた2022年1月1日。「今年の抱負は誰にも忖度しない、自分自身にも」と胸に刻みました。
自分の音楽をちゃんとやるんだ、そう決めた僕はあのPlaceboのトラックを作り始めたのです。
All day, placebo
人生は偽薬である
自分が今生きてる人生は本当に僕の人生なのだろうか。きっと今までの自分でしか描けなかったものなんじゃないか。
だから僕は今までの自分を少しずつ脱ぎ捨てて曝け出したいことをちゃんと曝け出そうと思ったんです。
自分の憧れる人たちの真似事からでもいい、少しずつ生まれ変わる為に自分がやれる事にトライしよう。
はっきりしたことがなかったとしても、
また今日はぐーたらしてしまった、でも今日は昨日よりちょっと好きな事をした。
今日はなんとなくだけど調子いい日だったな、なんとなくでも良い行いを出来た気がするな。
そんなことでも良いってくらいに、自分を受け入れていく日々でした。
近頃は、自己肯定感という言葉が定着しつつありますが、僕はあまりその概念が好きではありません。
誰かと比べて初めて自己肯定感が高い低いとなるわけで、それってそもそも比べる事で生まれてしまう意識だと思うんです。
その誰かが他人じゃなくて“理想の自分”であっても同じで。
本当はポジティブに考えたいけど...本当はそうしたかったわけじゃないのに...そうして自己肯定感が低いという結果に悩まされるんだと思うんです。
歌詞の中で、
君は君を 知らなくて良いんだよ
という部分があります。
君は君を愛しても良いんだよと言う人はいても、愛せない人たちの行き場のなさは無慈悲にも埋まることはなく、両者の間のとてつもない壁によって断絶されてしまいます。
未来は自分では確認することが出来ない、じゃあその未来は誰も知らない、
それってもしかしたら、どんな自分がそこにいても“今の自分”からすれば、“未来の自分”は常に新しい自分じゃないかと。
だからこそ、知らなくてもいいんだと思いました。
君は君、私は私、誰になんと言われようが、そこに君はいるよ。私もいる、それで良いじゃない。
そんな風に人生を歩んでいきたいと僕自身が感じたことです。
この歌詞を書いたのは2022年の初夏、また別のターニングポイントを向かえたぐらいの時、自分を磨くという名の下、知らなかった自分をたくさん知り始めたぐらいの時でした。
自分を証明するものが自分の生き方ならば、肩書きや経歴だったりなんてものはちっぽけなものです。
人ひとりひとりの人生に幸あれ、Placeboはそんな曲になりました。
決してポジティブな字面だけではないけど、泥臭い生き方しかできなかった自分の見た僅かな光は自分の中にありました。
僕自身であり、僕の音楽であり、僕の未来。
そしてそれは、
君自身であり、君の何かであり、君の未来。
共に良き明日にしましょう。
THE NAAV-Placebo
Placebo by THE NAAV - TuneCore Japan
Love.