Yuya Kumagaiのオフィシャルなブログ

ギタリストやカメラマンやロマンチストなどなどやってる熊谷勇哉による何気無いブログ。

幸せになってもいいですか

世の中なんでも言ったもんがち。どんな年齢であれ立場でどんな職種であれ、どんな人でも言ったもんがちなんだ。ただ、言ったからにはと付き纏う責任は誰にだって伴われているはずなのに、言わない方がそれを深く追及されてしまうようになった気がする。まだ、何も言っていない、何も言いたくない、そんな感じでだらだらと続けていると皆こう言う。お前は悪魔の子だ、と。そうして祓われてはまたその中から”子“が生まれて祓われる。そうして残ったものたちはマジョリティーを謳うのだろうか。

こんなことになるなら言わなければ良かったことも、言わないでおいたことも全てが疑わしくなって、気づけば誰も多くを語らなくなった。誰が真で誰が偽でそんなことを話す者たちは気づけば中立という名の何者でもない存在になってしまった。私は今の今までそこに居座っていたのだ。

そこには虚しさも充実さもどちらもなく、奇妙な程に安定感を与えられる。マズローの欲求5段階説というのがあるが、どうも間の何かが欠如しているのに気づかずに、そしてまた現代の人々が存在欲求を追い求めていることにも気づかず、第6の欲求を追い求めているようなそんな自己欲求に頭が満たされている。それほどに愚かなものが何者でもない存在なのではないかと言わんばかりに中立を謳ってしまっていたのだと、ふと我に帰った。

 

気付けばそこは自分の知っている世界ではなかった。言語もまるで分からない場所に来てしまった。だが、私を知る者はここにはいないと悟った事で小さな喜びと大きな解放を知った。

もしも、という言葉が好きではない。ただ、もしもここが本当に自分の知らない別の世界であるならば、まるで第二の人生が始まったような気がして目に見える全てのものに可能性を感じ、輝きに包まれるような気分になった。もう私を知る者は誰もいない、そして私がいた世界を捨ててまでここで生きる事に意味を感じる。これが私の贖罪になるならば、喜んでその罪を受け入れよう。

 

こうして私は私という存在でなくなった何者でもない新しい私として歩み始めた。この世界で暮らしてみて分かった事は、今までいた場所に比べて真逆の概念が存在するという事だった。

一見彼らは我々と何ら変わらない生活をしているし、世の中で起こっていることも同じであった。ただ、私がこの世界に来てから解放を心に感じていたそのエネルギーは彼らにはあるように見えるだけで全くの空っぽだったのである。皆が同じ考えをし、皆が目標で人生を生きている。元の世界ならば競争が生まれるはずであるが、まるで生まれてきた時点で全ての歴史が決まっているかのように皆が生きている。それぞれの決まってしまっている人生史をそのまま疑うこともなく歩むのである。

なんて生きやすい世の中なんだ、と衝撃を受けたのも束の間、段々と欲求を持つものにとって静かなる地獄であると考えるようになった。

そう、彼らには欲求がなかった。喜びも喜ぶ事という現象があるから喜ぶだけであり、怒ることも怒るという現象が起こっているから、悲しみも悲しいという感情から来るのではなく悲しむ現象によって悲しむことが行われているだけであり、人生の目的だけでなく人間そのものがまるで見えざるものによって動かされているかのような行動しかしないのである。まるで生き物と呼ぶには程遠い暮らしをしているようだった。

彼らが私を認知し出した事によって彼らの歯車が僅かに噛み合わせが悪くなっていったのを私は肌で感じられた。私が突拍子もない感情を出すと彼らは全く的外れな対応をしてきたのだ。怒ってもいないのに怒ってみると彼らは定型があるかのように対応をしだすが、私の次の対応がそれにそぐわないと急にバグを起こしたかのように無表情に固まり、そのまま何事もなかったかのように歯車を回し始める。この世界で真に自我を持っているのは私だけなのだと気付いた。

突拍子もない事も突拍子がない現象としての流れがあり、お決まりの事もお決まりの現象の流れがあるような中で私の行動はあまりにも逸脱していた。だがそれでも私を疑う者は一人としておらず、歯車が拗れてはまた動き出すのである。私だけが生きている、私だけが生きることを知っていると毎日そう言い聞かせて朝を迎えた。

 

やがて、この世界に人間は私一人なのだと考えるようになった。

 

 

長い長い時が過ぎた。

同じように歳老いて、同じように人は亡くなっていった。同じように赤子が生まれた。同じように私は孤独の中で存在し続けた。

もしも。もしも元の世界で暮らしていたら、私は甘いも酸っぱいもたくさん知って、それでも豊かな人生だと感じていたのだろうか。

もしも。もしも元の世界で何でも言ってしまっていたのなら、マジョリティーを謳って心は満たされていたのだろうか。

もしも。もしも中立をやめて何も言わないでいたのだとしたら、果たして本当に惨めな存在になっていたのだろうか。

もしも。もしもだ。私が中立を貫いていたら、悪魔の子だとも言われず、マジョリティーとして勝ち組ともなれず、どちらの立場もなく幸せを手に入れられていたのだろうか。

私の人生は、孤独の中に居続けたのだろうか。

私の人生は、私だけのもので終えられたのだろうか。

私の人生は、愛を知ることができたのだろうか。

 

私の生涯はこの世界で終わりを迎えるのだろう。これが私の贖罪ならば、どうしてこんなにも辛いのだろうか。どうして強く生きていられようか。

静かに地獄の業火に焼かれながら失せるように長い年月を溶かしていったことを悔やんだ。

そうしてゆっくりと、瞼が降りていくのを最後まで見届けた。

 

 

 

ふと、我に帰った。

私は知らない街にいるのだろうか。失せたと思っていたのに気付けば何ら変わらない景色じゃないか。まだ生きているのだろうか、辺りを見渡すとそれは遠い昔のいつの日かの光景だった。

なんでも言ってしまえばそれが世の常となると思っている人々と、何も言わない者とそれをあれやこれやと見物する者で溢れかえっていた。

もうずいぶん前の事でほとんど忘れてしまっていたのさが、なんだか懐かしい気分になった私はこの上ない幸せを心一杯に感じた。

孤独からの解放を感ぜずにはいられなかった。

 

 

もしも。

 

もしもだ。私が長い長い夢を見ていたのならば...。

 

 

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