Yuya Kumagaiのオフィシャルなブログ

ギタリストやカメラマンやロマンチストなどなどやってる熊谷勇哉による何気無いブログ。

トカゲの歩み

淀みなく歩み続ける事、繰り返す事、受け入れる事。言葉にすると難しく感じるけれど、実際は至ってシンプル。とはいえこれを行う事が1番難しい。

 

変化に敏感になれば、どのように変わっていくかの精密さが気になってきて、変化を気にし過ぎなければ、経過の速度が気になってしまう。

コンプライアンスについてだって同じように気にし過ぎだったりする。謙遜の態度が相応じゃない時がある。

 

そういった感覚がありとあらゆる所で発生する自分の感性があまり好きではない。好きではないし、面倒くさい。

人はこれをプライドと一言で片付けてしまうけれど、自分は片付けられない。片付けられない自分も神経質で好きじゃない、というか面倒くさい。

どこかのアーティストじゃないけど、実名の自分は死んだ、アーティストの自分が生まれたみたいな事を考えていないとどうにかなってしまいそうで苦しい時期があった。けれども、それこそ自分の神経質な部分の表れというか結晶ではないか。ああ、好きじゃない、めんどい。

 

そう、私は自分を捨てたくて仕方ない。

 

そんな私には毎年密かに安心する瞬間、年越しの瞬間だけは特別地味に喜ばしい。

何をするわけでもないが、年を越しても変わらない日常を感じながら、自分自身で変化を求めないと変わっていけない事への喜びに気付く。強制的にリセットする。背負うものは背負って要らないものは手放す。ああ、なんて不器用なんでしょうか。

 

とはいえそんな自分を愛していないわけではない。

むしろ可愛がっている。憧れる人物像を追いかければ追いかけるほど、簡単にそうはなれない事への気付きだったり、真逆を歩んでいたり。なんてめんどいヤツなんだ。

不完全な自分を横目に去年に置き去りにして行く。そうしてまた来年も今年の不完全な自分を置き去りにする。生き絶えるその日まできっとその不完全さに執着しながら暮らしていくのだろう。

 

そう、私は自分を捨てるのが怖かった。

変わっていく自分を受け入れる勇気が足りなかった。限界ギリギリの所で自我を持ってしまう。こんだけ生きづらそうな事を書き連ねておいてビビってただけなんすよ〜ってのも本当に情けないけど、恐らく本当のこと。

なので2024年は限界ギリギリを突破したい。そして不完全な自分を自分だと認めながら置き去りにしたい。面倒くさい自分に素直になれと告げていきたい。

 

この前トカゲを見かけたんだけど、もしかしたらあれはトカゲではないのかもしれないけど、脱皮の跡があった。こんな時期に冬眠しないで活動してるのは心配ではあったけれど、何故だか自分に姿を重ねた。

不器用でも神経質でもいいから、頑張って生きてくれ、としばらくヤツを見つめると、こっちになんとも言えない顔を向けたと思えば一瞬で隙間に消えて行った。

多分お互いにビビってんじゃねぇぞって言ってた。って言いながらビビりムーブしてた気がする。

そんな俺はいつになったらトカゲに触れるようになるのだろうか...。なんてね。

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傘をさしたがらない

雪の日、私は傘をさしたがらない。

昔見た洋画の主人公がそうだったから。ミーハーな所がある。でもなんだか切なげながらも血流がじんわりと巡っている様な気がして良かったのだ。

傘をさしなさいと言われて育ってきた。理由は簡単で、雨は大気の汚れを含んでいるから。今となってはちょっとばかし濡れたところでどうって事ない。

傘をささないために、地域性を引用したこともあった。なんとなく正当化したくなった。とは言っても、誰かに迷惑を掛けてるわけでもないので、心のどこかで寂しい気持ちになった。

 

私たちは常に理由がなければならない、という社会に生きがちだ。常に葛藤してる。かっこいいから、なんか良いから、それで片付けても良いじゃないかと。でも私はそうあっても良いと思う一方で、芸術の仕事は解像度の高さが必要になる。というか生きていると解像度の高さが豊かさに繋がることばかり。やっぱり理由は必要なのだろうな。

 

最近読んだ恋愛漫画の中に、好きな気持ちに理由なんていらないでしょ!そんなのわかんないよ!みたいなのがあって、わかるーとか思った。とか言いながらもいざその立場だったら、御託を並べても嘘っぽくなってしまうから同じように言ってしまうかもしれない。

みんな理由やトリックを知りたがるのに、説明すると急に嘘っぽくなったり説得力がなくなるのは何でなんだろう。色んな人たちと出会ってきて、答えだけ聞いて次に行くみたいな、こういう人本当に多かった。

 

どうしたら私の傘をさしたがらないを理由がなんか好きで納得してもらえるのだろう。

表情だろうか、これは任せてほしい。とびっきりの顔で伝えます。

声色だろうか、これも任せてほしい。とびっきり哀愁醸し出します。

話すスピードだろうか、任せてくれ。緩急つけます。

でもこれって口語の時限定過ぎてここでは伝えきれない。そもそもそんなに熱弁したいわけでもない。こんなことに興味を持つ人も少ない。私は傘をさすと天地がひっくり返るなんて重大な十字架を背負ってるなんてこともない。

 

どうしてここまでこの話を引っ張ってるのだろう。

単に雪が好きだからってだけなのに。

東京生まれにとって、東京の雪は特別なだけなのに。

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アウトオブ眼中

アニメの頭文字Dを観ていてあの熱さに共感せずにはいられなかった。MFゴーストは勿論、自身に向き合っていく地味さと泥臭い情熱は私の目に美しく映った。

向上心は大事、でも本質的に他人と比べてはならない。ものすごい矛盾を孕んだこの構図は、強くなる為に必要だと思う。

思い浮かぶ素敵な人たちは皆それで、何をするにも比べることはない。自身の中で闘ったものに対する評価を他人なりに純度高く見抜く。そりゃその人たちの周りには素敵な人が集まるわけだ。

アニメでも主人公はバトルの最中でも進化していき、レースが終われば勝ち負けの話には深く拘るという感じでもなく、自分と向き合った結果を回想する。自分がしたい車の走りを追求していた。いち走者としてから始まり、チームに所属したタクミはチームのために、そして己の為に結果を出す。

現実世界でなかなかこのレベルで考えられる人ってそうそういない気がしてて、私はこの純度を目指したいと常々考える。ただその為に上げた思考レベルも知識も時々足枷になる瞬間があり、自らの未熟さを痛感してやまない。でっかくなりてぇ、ただそれだけなのに。

 

世の中のゴシップなニュースがネットを通じてたくさん流れてくる。この十何年でその質や量もだいぶ変化した様に感じる。

ネットの意見というのはあくまでもネットをやっている人たちの中で生まれているもので、本来は一億人以上いる中の何%の中でも限られた数%でしかない。しかし私たちはそういった情報を5つとか見るだけでも、ちょっと話題になってる様に感じてしまうもの。その連鎖が風潮を作っていって、無意識に自らで生き辛い世の中にしてしまっていく。

 

私は素敵な人に出会いたい。出会う為に自身を磨いていきたい。その為にはこれが良いだのこれがダメだのを極力聞き分けたい。誰かがやっている事が間違っていたら、責任を持てる形で伝えたい。自分と出会って素敵になってくれるような人間を信じたい。

たいそうな事を言ってしまっているけれど、シンプルな話、良い考え方をシェアし合えるコミュニティーでありたいっていうのが全て。

その中でも私は、主人公の藤原拓海のように純度高く己と向き合いながら、受け入れる懐を持ち、強くなりたいという情熱と共に、その姿を周りの人たちにお裾分けしていけるようになりたいんだ。

 

今日も今日とて、観ていたら車を走らせたくなった。そんな事に物思いふけてみた。外寒過ぎ。

 

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心の花瓶

もう自分の周りにSNSをやってる人がいない。

っていうのは嘘になるけど、この頃はAIのアルゴリズムなのか全く知らない人たちとよく知る人たちしか画面に出てこない。

どこに行ったんだろうか皆、元気に暮らしているのだろうか。よく見る人たちは元気にライフスタイルを提示しているし、同業だったりクリエイターも多いし、いいねって思うことも多々ある。

だがもしも自分がこういった職業をやっていなかったら、きっと昔の友と同じようにネットから消えていると思う。

多分、誰かにとっては私がそっち側なのだ。

 

私は本来インターネットが向いていない。

そんな気がしている。基本的に仕事の内容だったり自分のプロジェクトだったり、それ以外を公開していない今。簡単なプロフィールしか見せてない気がする。

あの頃遊び半分でやってたSNSも今は自分のブランディングのツールの1つだ。自分がどこにカテゴライズされるかも自分で”選んでる“つもり。いや、”選んでしまってる“のだ。


でもある時ふと思った、昔の友は今の俺をどう見てるんだろうと。

きっと対面で会ったら、変わってないっていう気もする。きっと昔よりも音楽で生きてるって思われてはいると思う。どっちも事実だ。

しかし、SNSでいつも見てるから久しぶりな気がしない、と言われるとそれは共感できない。

私は見れていないから、連絡が来るまで私の久しぶり!は更新されないのだよ。そしてまた、SNS更新してよとも思わない。

そういった会話が発生すると、得体の知れぬ寂しさがじわじわと心を蝕む。相手が悪いわけではない、時の流れ方が違うのを目の当たりにしてしまうからだ。

 

それは実のところ、多くの友人たちも同様だ。自分の更新が落ち着くと、誰かの活動が目に入ってくる。すると不思議と同じ1週間でも誰かの投稿は1ヶ月の量に感じたり、2日の量に見えたりする。きっと何かが澱んでいるのだろう。

時に心の花瓶から溢れ出る水が濁っているのに気付く。新しく入れ替えないと元気の苗は萎れてしまう。みんなあるよね、こういうこと。

だからこそ、メッセージだったりリアクションをくれる人たちは大事にしたい。励ましもツッコミも、全てが自分の生きる理由の1つになってる。

今の自分は今しかいない、と強く感じさせられる。

 

私は今のあなたたちを知りたい。元気に過ごしているだけで私も良い人生にしようと鼓舞される。美しい花を咲かせよう。例え歪に咲いてもいい、精一杯過ごしているその日々が紛れもなく美しいから。

 

2024年、”選ぶ“事をやめようと思う。

ありのままのクマガイユウヤをその都度そこに置いていこうと思う。

誰かの無意識に蝕まれず、誰かにとって何かのきっかけになれるといいなくらいのマイペースで行く。ネット向いてない気がするなりにね。

 

世界よ、どうぞお手柔らかに。

This is new Kumagaism.

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記事を投稿しました

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さて、やってまいりました。不定期投稿過ぎるオフィシャルブログ執筆者ことクマガイです。

今回の話題は特に無くて、とにかく文章を投稿したいという不純な気持ちで書き始めました。この記事の行先はいかに!とまあかなり調子の良いことを言っているイントロダクションではありますが、文章を書く機会があったのでその気運が高まっているのです。じゃあ何か書きたいことがあるかといえば、めちゃめちゃある。前回が去年の初夏で止まっているからね!そりゃもうたくさんありますよ。しかし有難いことに色んな事に取り組ませてもらっている間にそちらに夢中になってしまったんですね。あれもこれも素敵なことばかりの2022年でございました。

さて、と言ってみたものの、ここまで300文字くらいを無駄にしている割にはただの世間話で、かつ何かに繋がる気配を残して何も無い。すみませんね、次からちゃんと書きますから!次から!っていう割に3日坊主になるのもすでに見えてますよね。宿題はギリギリにやるタイプ、否、やれないことのが多い者でしたんで、一周回って開き直っちゃうわけです。そんな開き直りを始めた矢先の文字書きはものすごいもので、あれよあれよと軽々書いてしまったのです。文章書くのって楽しいというランナーズハイによってアドレナリンが爪の間から滲んで滲んでたまらんのですよ。するとどうです、今も500字を過ぎた辺りなのに一向に本題に入らず、我が物顔でそこのけそこのけお熊が通るのですよ。こりゃもうこのブログに辿り着いた人たちは遂にいかれちまったかと!大丈夫、安心してください、初めからです。まともならこんな文章で話題転換の一つもないまま書けないでしょうに。そもそもどうしてこんなことをしてまで文章を投稿したかったのかって?きっかけが欲しかったんです。自分がブログを書くことが好きなのについついサボってしまうというか、とにかくどうでもよくなってしまう。そういう事ってみんなもありますよね、これやらなきゃあれやらなきゃ。やらなくても問題ない事ばかりやりたいなーなんて思ってしまったりしますよね。それをここでやってるだけです、っていう記事を投稿しただけですっていうね、

今回の記事の10倍の文字数を今朝書き上げました。近々お知らせできると思います。

 

そしてこのブログも緩やかに正式に稼働させていきます。

それではクマガイユウヤ(23'ver.)でした。

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Life is the placebo

THE NAAV-Placeboをリリースしてもうすぐでひと月。

たくさんの方々に聴いて頂けて嬉しいし、曲も喜んでると思います。

リリースに向けて、今回はセルフプロデュースで少しせかせかしながら制作しておりますが、着々と出来上がってますので、どうかやんわり楽しみにして頂けたらと思います。

 

さて、この曲を制作した時の裏話的なものを少し書こうかと思います。

 

皆さんは人生のターニングポイントを幾つぐらい通ったと思いますか?

僕はわりかし定期的にそのタイミングを通過している気がしていて、まさに去年の夏がそれでした。

 

所属していたバンドを抜けて、その仲間たちとも共に音楽をやらなくなってしまい、心のどこかではもしかしたら自分の音楽人生が1からのスタートになるんじゃないかと、仕事としての音楽を続けられなくなる覚悟を受け入れました。

そういった当時の現状を受け入れて尚、僕は音楽を続けたいという気持ちが強く、静かに自身と闘っていたように記憶しています。

幸いお仕事が無くなることはなく、新しい人たちとの出会いによって、今まで生きながらえているわけですが、これは自分自身のお陰とは考えていなくて、僕の音楽を必要としてくれる人たちのお陰だと思ってます。

 

そんな中、もっと自分らしくありたい、という思いを抱きながら迎えた2022年1月1日。「今年の抱負は誰にも忖度しない、自分自身にも」と胸に刻みました。

自分の音楽をちゃんとやるんだ、そう決めた僕はあのPlaceboのトラックを作り始めたのです。

 

All day, placebo

人生は偽薬である

 

自分が今生きてる人生は本当に僕の人生なのだろうか。きっと今までの自分でしか描けなかったものなんじゃないか。

だから僕は今までの自分を少しずつ脱ぎ捨てて曝け出したいことをちゃんと曝け出そうと思ったんです。

自分の憧れる人たちの真似事からでもいい、少しずつ生まれ変わる為に自分がやれる事にトライしよう。

はっきりしたことがなかったとしても、

また今日はぐーたらしてしまった、でも今日は昨日よりちょっと好きな事をした。

今日はなんとなくだけど調子いい日だったな、なんとなくでも良い行いを出来た気がするな。

そんなことでも良いってくらいに、自分を受け入れていく日々でした。

 

近頃は、自己肯定感という言葉が定着しつつありますが、僕はあまりその概念が好きではありません。

誰かと比べて初めて自己肯定感が高い低いとなるわけで、それってそもそも比べる事で生まれてしまう意識だと思うんです。

その誰かが他人じゃなくて“理想の自分”であっても同じで。

本当はポジティブに考えたいけど...本当はそうしたかったわけじゃないのに...そうして自己肯定感が低いという結果に悩まされるんだと思うんです。

 

歌詞の中で、

君は君を 知らなくて良いんだよ

という部分があります。

 

君は君を愛しても良いんだよと言う人はいても、愛せない人たちの行き場のなさは無慈悲にも埋まることはなく、両者の間のとてつもない壁によって断絶されてしまいます。

未来は自分では確認することが出来ない、じゃあその未来は誰も知らない、

それってもしかしたら、どんな自分がそこにいても“今の自分”からすれば、“未来の自分”は常に新しい自分じゃないかと。

だからこそ、知らなくてもいいんだと思いました。

君は君、私は私、誰になんと言われようが、そこに君はいるよ。私もいる、それで良いじゃない。

そんな風に人生を歩んでいきたいと僕自身が感じたことです。

 

この歌詞を書いたのは2022年の初夏、また別のターニングポイントを向かえたぐらいの時、自分を磨くという名の下、知らなかった自分をたくさん知り始めたぐらいの時でした。

 

自分を証明するものが自分の生き方ならば、肩書きや経歴だったりなんてものはちっぽけなものです。

 

人ひとりひとりの人生に幸あれ、Placeboはそんな曲になりました。

決してポジティブな字面だけではないけど、泥臭い生き方しかできなかった自分の見た僅かな光は自分の中にありました。

僕自身であり、僕の音楽であり、僕の未来。

そしてそれは、

君自身であり、君の何かであり、君の未来。

 

共に良き明日にしましょう。

 

 

THE NAAV-Placebo 

Placebo by THE NAAV - TuneCore Japan

 

Love.

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2020-2022

暫く家を空けていると、その前を通りゆく人がたくさんいたようだ。何かをしたためていれば良かったものの、全てものづくりに没頭していった為に2年くらい時間が経っていた。

 

この数年で私の状況は大きく変わった。去るもの来るもの多く、それは決して悪いものではなく、只ひたすらにそれぞれの人生が進んでいっただけであって、不思議なことにまた再会する人も多いこの頃。

私の人生も面白いことに大きく変わっている最中であって、それは一つや二つではない。

何かを手にしたかったあの頃を可愛く思えるようになった。

野心はまだ燃えたぎっている。挑戦に怯えなくなった。全てが自分を作り出すものに感じて新鮮に思えるようになった。

 

頭の中のフィクションはいつだって現実に結びついている。友人はフリーランスになって今頑張っている。また別の友人は自分のやり方で素敵な事をやり続けている。そして私はそんな友人たちと成長したいと思っている。

フィクションをノンフィクションにするのが最高の楽しみになった。

 

このブログにたどり着いた人はきっと、一緒に素敵な景色を見て行きたいと思ってくれる人たちだと願っている。

今年はTHE NAAVのEPを作る。まずはそこから頑張ろうと思う。

そろそろたまには家に帰るとしよう、作ったものを引っ提げてね。

 

まずは2年前に作ったものを置いてこうと思う。

良かったら聴いてね。

https://linkco.re/RP3FhhTC?lang=ja

 

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