Yuya Kumagaiのオフィシャルなブログ

ギタリストやカメラマンやロマンチストなどなどやってる熊谷勇哉による何気無いブログ。

渋谷には色が無い

雨が酷く降り注ぐ金曜日。ここ渋谷には今日も多くの人が行き交っていた。この街は天候など関係なく物凄い勢いで時が過ぎて行く。栄えに栄えるこの地は人種も年齢も様々にそれぞれの人生が交差するスケールの大きな街だ。ただ、そのスケールに比べて寛容ではない。街のカラーというものは暮らしに現れる。そしてここ渋谷は長い歴史を随所に匂わせ、また世のリアルタイムの流行を示す。ここは今日も誰も手にすることが出来ない桃源郷、色が無い街だ。

自分にとってのチャペルの様な場所がある。扉を開けば薄暗い室内と古びた椅子が並んでいて、天井を見上げれば漆黒を仄かに照らすシャンデリア、一杯のコーヒーと少しの水が静かに机に置かれ、そして今日も始まる。まるでここは避難所であり隠れ家でありチャペルであり、そして自身と向き合う大事な場所となった。も日々の懺悔がそこにいる人々によって行われ、静かに静かに時が流れる。

 

時々、大事な瞬間に自分の半生を振り返る。忘れ難きを拭い、耐え難きを知り、幸せの道標に思いを馳せる。受難は常に自身に降りかかる。それは思い込みでもなく事実としてそこに現れる。私にとっての深いところを想像を超えたところから突き刺して行くのを知らなければならない、誰も最後の最後まで助けてはくれないのだから。だからこそ、私はこのチャペルに心を捧げに来た。

どんなにこの桃源郷で暮らそうと、ありとあらゆる物がファッションになり、特徴になり、真実めいた虚像になり、そしてまた他者と同一の類いとして飲まれてゆくのならば、私という存在に揺るぎない価値を付けていかなければならない、自らの手で。

自身の価値とは何を表すのだろうか。その問いにBibleは答えを教えてはくれないし、ましてや言葉を知らねばそもそも導きに気付けない。ましてや人は誰も教えてはくれない。ただ、導きがそこにあるだけである。

最近まで自分の事を、誰よりもよく知っているつもりであったし、誰よりも知らないと考えていたが、本当に私は何も知らなかったのである。自問自答を繰り返しては私とは何かを探し続けた。言うまでもなく、二十数年生きてきて考えて来ても分かりやしないのだからそれは分かるわけないのだが、それでも自分の価値をほんの僅かでもいいから触れたかっただけなのである。それさえも許されていないんじゃないかと思ってしまった時にはチャペルの扉の前に来ていたのである。

雨はまだ強く窓を打ち付ける。自分より長く生きて来た人の言葉を信じるということは、同様に自分よりも若いものに対しても同様でなければならないと私は考える。その言葉は誰にとっても言葉であるかもしれないが、方法のための言葉であってはならない。自身の為の言葉であって欲しい。そこに愛を持たなければ、多くの人々を愛する為の私自身にはなり得ないのではないか。それが例え、従来の手順から外れていたとしても私は私の行う事に嘘をつきたくない、愛が何かをまだ知らないのだが。

 

私はハッとした。少し眠りについていた様だった。

私は今どこにいるのだろうかと思うくらいに夢心地だった。ただ、見たい夢を見ていた様な気もする。取り留めもないことを考えてしまったが未だに状況は平行線のままだ。俳優のJames Deanは、急いで生きないと、死に追いつかれない様に。と言ったそうだが、まだ私には欲望がたくさんあるままで、まだ成りきれていないことばかりだ。私にとっての受難はとても私の根深い所を掴んで離しやしないが、決して前に進めないわけではない。ふとした時に過去の自分を置き去りにする事だって出来る。それは幾度となく訪れた出会いと別れ。惜しむ暇はない。

ベートーヴェンピアノソナタ第8番ハ短調Op.13 悲槍が始まった。まだ追いつかれるわけにはいかない。死にも私にも言葉にも真実にも何もかも、追いつかれるわけにはいかないのだ。私は自分が一番怖い。安堵も哀しみもあらゆる私自身が怖い。それでも向き合わなければいけないものがあると知ると、強い熱を帯びる様になる。その熱に呑まれ過ぎない様にその熱を少しだけ頼りにしてなんとか生きながらえている。

そんな事を考えているうちにピアノソナタ第14番嬰ハ短調Op.27-2 月光がかかり、視界が少し広く鮮明になるような感覚になった。幾度となく訪れたあの時の一瞬の安寧。全ては導きのままに在ると信じているような。カルマはいつも今の自分を映しているのだと。

 

そろそろここを出て肌寒い街に出てみようと思う。さっきまでと違い、都会の喧騒は妙に心地良く、私はいるんだと実感する。この地に憧れも何もないが、好きな場所はたくさんある。雨はまだ止みはしないが、次第に光を見るだろう。その時私は大きな船出に出る事になるのだろうと誰かに教えて貰ったような気がする。

相変わらず今日も渋谷は色が無い。そして、私もまだ色が無い。

 

 

 

追伸

建物を出る前に気付いたのだが、プログラムの端にはこんなことが書いてあったので載せておく。

 

「そしていま、すぐに内へと向かいゆけ 内にこそきみの中心があるだろう

さらにまた感覚をこそ信頼したまえ きみの悟性がどんなときでも目覚めていれば 感覚はきみを欺くことがない

どんな場合も 理想を持ってふるまいたまえ そうすれば過去は滅びず 未来はすでに生まれきて 瞬間は永遠と化すだろう」

ゲーテ「遺言」より

 

記事を書いた後でこれを読んで良かったと思う。

神の御加護を。

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幸せになってもいいですか

世の中なんでも言ったもんがち。どんな年齢であれ立場でどんな職種であれ、どんな人でも言ったもんがちなんだ。ただ、言ったからにはと付き纏う責任は誰にだって伴われているはずなのに、言わない方がそれを深く追及されてしまうようになった気がする。まだ、何も言っていない、何も言いたくない、そんな感じでだらだらと続けていると皆こう言う。お前は悪魔の子だ、と。そうして祓われてはまたその中から”子“が生まれて祓われる。そうして残ったものたちはマジョリティーを謳うのだろうか。

こんなことになるなら言わなければ良かったことも、言わないでおいたことも全てが疑わしくなって、気づけば誰も多くを語らなくなった。誰が真で誰が偽でそんなことを話す者たちは気づけば中立という名の何者でもない存在になってしまった。私は今の今までそこに居座っていたのだ。

そこには虚しさも充実さもどちらもなく、奇妙な程に安定感を与えられる。マズローの欲求5段階説というのがあるが、どうも間の何かが欠如しているのに気づかずに、そしてまた現代の人々が存在欲求を追い求めていることにも気づかず、第6の欲求を追い求めているようなそんな自己欲求に頭が満たされている。それほどに愚かなものが何者でもない存在なのではないかと言わんばかりに中立を謳ってしまっていたのだと、ふと我に帰った。

 

気付けばそこは自分の知っている世界ではなかった。言語もまるで分からない場所に来てしまった。だが、私を知る者はここにはいないと悟った事で小さな喜びと大きな解放を知った。

もしも、という言葉が好きではない。ただ、もしもここが本当に自分の知らない別の世界であるならば、まるで第二の人生が始まったような気がして目に見える全てのものに可能性を感じ、輝きに包まれるような気分になった。もう私を知る者は誰もいない、そして私がいた世界を捨ててまでここで生きる事に意味を感じる。これが私の贖罪になるならば、喜んでその罪を受け入れよう。

 

こうして私は私という存在でなくなった何者でもない新しい私として歩み始めた。この世界で暮らしてみて分かった事は、今までいた場所に比べて真逆の概念が存在するという事だった。

一見彼らは我々と何ら変わらない生活をしているし、世の中で起こっていることも同じであった。ただ、私がこの世界に来てから解放を心に感じていたそのエネルギーは彼らにはあるように見えるだけで全くの空っぽだったのである。皆が同じ考えをし、皆が目標で人生を生きている。元の世界ならば競争が生まれるはずであるが、まるで生まれてきた時点で全ての歴史が決まっているかのように皆が生きている。それぞれの決まってしまっている人生史をそのまま疑うこともなく歩むのである。

なんて生きやすい世の中なんだ、と衝撃を受けたのも束の間、段々と欲求を持つものにとって静かなる地獄であると考えるようになった。

そう、彼らには欲求がなかった。喜びも喜ぶ事という現象があるから喜ぶだけであり、怒ることも怒るという現象が起こっているから、悲しみも悲しいという感情から来るのではなく悲しむ現象によって悲しむことが行われているだけであり、人生の目的だけでなく人間そのものがまるで見えざるものによって動かされているかのような行動しかしないのである。まるで生き物と呼ぶには程遠い暮らしをしているようだった。

彼らが私を認知し出した事によって彼らの歯車が僅かに噛み合わせが悪くなっていったのを私は肌で感じられた。私が突拍子もない感情を出すと彼らは全く的外れな対応をしてきたのだ。怒ってもいないのに怒ってみると彼らは定型があるかのように対応をしだすが、私の次の対応がそれにそぐわないと急にバグを起こしたかのように無表情に固まり、そのまま何事もなかったかのように歯車を回し始める。この世界で真に自我を持っているのは私だけなのだと気付いた。

突拍子もない事も突拍子がない現象としての流れがあり、お決まりの事もお決まりの現象の流れがあるような中で私の行動はあまりにも逸脱していた。だがそれでも私を疑う者は一人としておらず、歯車が拗れてはまた動き出すのである。私だけが生きている、私だけが生きることを知っていると毎日そう言い聞かせて朝を迎えた。

 

やがて、この世界に人間は私一人なのだと考えるようになった。

 

 

長い長い時が過ぎた。

同じように歳老いて、同じように人は亡くなっていった。同じように赤子が生まれた。同じように私は孤独の中で存在し続けた。

もしも。もしも元の世界で暮らしていたら、私は甘いも酸っぱいもたくさん知って、それでも豊かな人生だと感じていたのだろうか。

もしも。もしも元の世界で何でも言ってしまっていたのなら、マジョリティーを謳って心は満たされていたのだろうか。

もしも。もしも中立をやめて何も言わないでいたのだとしたら、果たして本当に惨めな存在になっていたのだろうか。

もしも。もしもだ。私が中立を貫いていたら、悪魔の子だとも言われず、マジョリティーとして勝ち組ともなれず、どちらの立場もなく幸せを手に入れられていたのだろうか。

私の人生は、孤独の中に居続けたのだろうか。

私の人生は、私だけのもので終えられたのだろうか。

私の人生は、愛を知ることができたのだろうか。

 

私の生涯はこの世界で終わりを迎えるのだろう。これが私の贖罪ならば、どうしてこんなにも辛いのだろうか。どうして強く生きていられようか。

静かに地獄の業火に焼かれながら失せるように長い年月を溶かしていったことを悔やんだ。

そうしてゆっくりと、瞼が降りていくのを最後まで見届けた。

 

 

 

ふと、我に帰った。

私は知らない街にいるのだろうか。失せたと思っていたのに気付けば何ら変わらない景色じゃないか。まだ生きているのだろうか、辺りを見渡すとそれは遠い昔のいつの日かの光景だった。

なんでも言ってしまえばそれが世の常となると思っている人々と、何も言わない者とそれをあれやこれやと見物する者で溢れかえっていた。

もうずいぶん前の事でほとんど忘れてしまっていたのさが、なんだか懐かしい気分になった私はこの上ない幸せを心一杯に感じた。

孤独からの解放を感ぜずにはいられなかった。

 

 

もしも。

 

もしもだ。私が長い長い夢を見ていたのならば...。

 

 

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早朝の芸術

早朝、この時期になると日が昇るのが遅くなる。

その景色というのはなんとも美しく、思わず立ち止まってしまう。冬を先取りにした気持ちになり、何度目かの景色を見て憂いでしまう。

まるで空には素晴らしい画家が居座っていて、気まぐれに描き出す様々な絵に命が宿っていて、自分はそれを独り占めしている様な気分になる。7日間のうちに創り出されたものは我々にとってはどんな生命よりも生命なのであると思わずにいられない。

その画家は描き出した壮大な絵画から私に告げる、これが夢ならばそれはその画家と私の間だけのことであり、これが現実ならば皆がそれをその様に思っている。故に夢のその先にお前が見ているもののみを信じ、そして導きの通りに行うが良い、と。

自分が目指した道には多数の曲がり道が存在し、行手を阻むのはいつだって人間であった。我々はいつだって愚かなことは前々から分かっていたではないか、自分自身に敬虔な信者になることの全ては多くの夢に対する答えであり、欲求の全てを知ることとなる。

完璧な人間になりたいわけではない。成功をしたいということではなく、自分にとっての失敗をしたくないということの裏返しに過ぎない。時々、解決出来ないことに出くわすと自戒の念に駆られる。冷静に論理を整理してしまえば何でもないなんてことはあるが、人間としての自分の未熟さに焦点がいく。

そんな時に突然とある朝の様に画家が現れると彼はいつも同じことを告げる。その繰り返しの中でしか我々は生きていない事を暗に告げられる。

世の中を生きて行くのに大事なのは、自己愛と隣人愛と感謝なのだろうかとこの頃思うが、私はいつでも愛を探し愛を愛せる者になりたいと感じる。

そんなことが脳裏に過ぎる毎日ではあるが、まだ生き永らえている。

まだ道半ばなのだろうと言い聞かせ、また早朝の芸術という洗礼を受けるのであった。

 

 

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ハロウィンのオバケたち

トリックオアトリート!

お菓子をくれなきゃどうにかしちゃうぞ!

 

子供たちは近所の家を回ってお菓子を貰っていた。大きな入れ物に溢れ返るほどのお菓子。早く家に帰って食べたくてしょうがない。

物心ついた時から恒例行事として行っていたが、気付けば貰う側から渡す側になっていた。可愛い子供たちがそれぞれのオバケたちになりきってベルを鳴らす姿はとても可愛くて楽しみだった。

今宵も可愛い怪人たちはやってくるはずだったのだ。しかし、ドアを開けるとそこには大人が立っていた。

トリックオアトリート。お菓子をくれなきゃどうにかしますよ。

目線もほぼ変わらない大人がふざけて言っていたので困惑してしまった。

えっと、どちらさまでしょうか?

トリックオアトリート。お菓子をくれなきゃどうにかしますよ?

これ以上無駄に会話したくなかったので、お菓子を渡した。するとその大人はすぐさま帰って行った。何が何だか分からなかったが、なんかのジョークなのだろうかと思っていたら、またベルが鳴った。

トリックオアトリート。お菓子をくれなきゃどうにかしますよ。

今度はまた別の大人が同じようにやってきた。悪ふざけが流行っているのかもしれないと思い、すぐさま返事をした。

えっと、どちらさまでしょうか?

トリックオアトリート。お菓子をくれなきゃどうにかしますよ?

あまりにも訳がわからなかったのでお菓子を渡すのも気味が悪く感じた。

今日は子供たちにお菓子を配る日なので大人の方には渡せないです。さっきも同じように大人の方が来ましたけど、何が起きているんですか?

少し黙りこくった大人は口を開いたらこういったのだ。

だから、トリックオアトリート!どうにかされたいんですか!

そんなのいい大人が言っていいんですか!?通報しますよ?

どうして私が通報されないといけないんですか!普段から大人のコスプレをしているのに今日だけはそれが通用する日じゃないですか!私だって好きで大人やってる訳じゃないんですよ!そうでもしないと世の中やっていけないから!子供たちにお菓子をあげることが出来る本物の大人のところに行って貰いに来ても何もおかしくないでしょう?!

そう、その大人たちは、大人のコスプレをした人たちだったのだ。だが単にコスプレをしているから来た訳ではないようで、というのもその方の言うことが少し遠からずな事であるような気がしてしまったからだ。

気付けば家の前の道路は人で溢れかえっていて、大人のコスプレをした大人たちは大騒ぎをしていた。社会人という立ち場の大人のコスプレをしていたり、子供たちと同じ格好をする大人のコスプレだったり、挙げ句の果てにそういう人たちを一目見ようとやってきた大人のコスプレをする大人たちが街を埋め尽くしていたのだ。警察は大量に出動させて厳戒態勢が敷かれていた為、混沌とした雰囲気であるのが玄関からも見ることが出来た。すると、テレビから速報が伝えられたのが部屋から聞こえてきた。

ただいま入った情報によりますと、1億円の費用が投資されている事を市が発表したそうです。

ワイドショーのコメンテーターたちはそれを聞くや否や口を揃えて辛口をコメントを並べていき、「1億円事件」と未解決事件として話を進めていった。するとそれを耳にしていた大人のコスプレをした大人が声を荒げた。

このコメンテーターだって傍観者では済まないんですよ!全うな立場でいたいだけの大人のコスプレをした大人なのですよ!私は大人のコスプレをしている自覚があるからこうしてトリックオアトリートと言ってちゃんとお菓子を貰いに一軒一軒まわっているのに、道路で騒いでるやつらは大人のコスプレをしている事を遊びと称して今日だけは許されると思っている!したいわけでもない大人のコスプレというのをああいうやつらによって軽薄なものにされてしまうなんて、、、こうしてお菓子を貰おうとしている私が馬鹿みたいじゃないか!

興奮して止まらなくなってしまったその大人は叫ぶだけ叫んで落ちつくとカバンから道化師を模したようなお面を取り出してゆっくりとこう言った。

ジョークを思いついた、それでは。

結局お菓子も貰わずに人でごった返した街に向かって帰ってしまった。その帰っていく姿というのはただの大人そのものであった。

 

私はその夜遅く、あの大人の言葉が離れず眠れなかった。悪い悪夢をずっと見ているような気がしてならなかった。

きっと私も大人のコスプレをする大人にお菓子を渡す大人のふりをしている大人のコスプレをしていたのだろうか。

結局大人のコスプレをしているということは、あの人たちは大人ではなかったのだろうか。子供ではないというのは見た目の話であって、大人ではないのだとしたら、一体あの人たちは何者なのだろう。

どうしてベルを鳴らした人たちは、あの人は声を荒げたのだろうか。

 

トリックオアトリート。

きっと、お菓子をくれなくたって勝手にどうにかしちゃっているだろう。

 

 

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「人生に少しのスパイスを」

良いなと思った映画を観るとまるでその世界にいったかのような気分になってしまい、暫くの間だけ自分の数%だけその人になってしまう。

俗に言う共感性羞恥とは異なり、感受性に関わる事なのだろう。映画を観ている時は観客として物語を追っているのだけれど、エンドロールが流れる頃には全ての流れを汲み取ったかのようにインプットの整理が始まる。映画の内容について熟考し、決してハッピーになり過ぎず、また決して深刻になり過ぎない。エンドロールは僕にとって重要な時間である。ここで帰ろうものならどんなに結末がハッキリしていたとしても数日はにえきらない気持ちで過ごす事になるだろう。そうしていよいよ全編が終わった頃、帰り道は既に僕のものではなくなっていて、段々と物語が薄ら垣間見えてくる。厄介な事に、映画館で観た帰りはいつもそうなってしまう。

例えば、ピクサーのものを見れば、なんだって上手くいきそうな人になるし、ゴッサムシティの1人に出会えばまるで労働階級者の匂いをちらつかせたがるし、1人のニューヨーカーに魅了されてしまえば今にも些細なことが素敵に感じられてしまう。たくさんの物語が自分の知らない世界に連れて行ってくれる、こんなに素敵なことはそうそうない。映画を観るだけで素晴らしい体験ができるのだから。

とまあそれで済めばこの話はもう全て良い話で終わってしまうんだけど、こんなにも主役に影響されてしまうと厄介が過ぎる。まるで自分は役者かのようになりきりたい欲望に駆られ、そしてまたそういった映画に出会いたくなる。その延々のループにハマってしまった。思っているよりも単純な人間なようなので、どんなに悲劇的な末路であろうとその人間の美しい部分が魅力的に映りすぎてしまうのだけれど、これまた新しい自分を見つけたかのようにニヤリとしてしまう。これを人はナルシストというのかもしれないが、魅力的な映画に出会う度に自身が変化してしまうさまが想像以上に楽しいのでやめられない。味をしめてしまったのだ。

 

繁華街を歩き回っていると目紛しく変わる顔に目が行きがちであるのだが、不思議なもので群衆の中にいると自身の孤独が寂しさから来るものでなく多すぎる存在の数々に打ち消されてしまう事による空虚から来ているものだと気付いてしまった事に気づく。ハッとして足元を見ると、自分の影はどこにも見当たらないどころか、人々の足によって視界は埋め尽くされていてまさに一寸先は闇であった。人間は本当に恐怖を感じてしまった時ほど後ろを振り返ることは出来ないもので、ただひたすら人混みを掻き分けながら流れに沿って進むことしか出来なかった。

すぐ横の路地に身を寄せて一息つくとようやく自分の影を見ることが出来て少しホッとする自分がいた。大都会とはこの事を言っているのかもしれないなとクリスタルキングを聴きながら少しセンチメンタルな気持ちに駆られる。ビルとビルの隙間から人の行き交う姿が絶えず映し出され、まるでそれは秒針があの速度で動いている理由を教えてくれているようだった。

路地を抜けると客引きの兄ちゃんたちがメニューをくるくると手のひらで回して暇を潰しているのを見つけては、あっちに行ってしまえば面倒だからと道の端っこを小走りで通り過ぎる。これじゃまるで逃走している人っぽいのでわざと周りを気にしながら少し俯き気味に歩くことにした。だが案外人は声をかけてくれないものだ。地味ハロウィンというものが流行っているからハッシュタグでも付けて投稿してみようかと思った。思っただけで何も普段の日常と変わらなかった事に気づいてしまったので、つまらんことを考えてしまったなーとぼやいた。

なんやかんやで喫茶店を見つけたので入ってみると、昭和を感じさせる内装で素敵な場所だった。今なら出てきたコーヒーを眺めながら何か物思いに更ける風を装えるとか思ったりして気が落ち着かなくなったので、早くも飲み干してしまった。

果たして今の自分は何者か分からないまま、手書きの伝票の会計を済ませ、またさっきの街に出てきてしまった。

なんと不思議なことに外の様子は一変していた。夜の街へと変化してしまった繁華街でイヤホンを装着し、メロウで不穏なビートに身を任せて心を遊ばせた。華やかな空気を弄んだ。

この街で今、たったひとりの主人公になった。

全てが退屈に感じ始めたのをきっかけにプロローグが始まる。たったひとりの平凡な日常は物語に変わったのだ。

 

エピローグに飲み込まれた彼はどこに行き着いてもプロローグに出会う。退屈な人生を少しのスパイスで何者でもないかもしれないものに突然出会い、恋に落ちてしまった。2人は堂々巡りを繰り返すのだが、その先で待っていたものとは、、、。

アカデミー賞受賞作品が贈る少し辛口なロマンティックストーリー。あなたもあなた自身に恋をしたくなるかも?

 

 

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タピオカミルクティー1つ

 

20XX年、タピオカドリンクの甘過ぎで糖尿病患者急増。

 

日本国内は重大な危機を迎える。かつての若年層の大量入院により世の中を回すのは現若年層と定年間際層、よって社会の中核以上の人間に影響した為に社会に大きな打撃を与えた。

 

空前絶後のタピオカブームを支えた”バエ“はほとんど飲まずに放置される民度の低さと大量の糖尿病患者を生んだ。

若者から若者にその民度は受け継がれ、街の清掃活動をする老人たちの不満は爆発、一部の老人との間に反若者勢が生まれる。そしてついに政府はタピオカドリンクの路面店を全面禁止し、出店していた企業を片っ端から処罰、また日本進出していた海外企業店舗を完全撤退させた。

売り上げの落ち込みによりすでに路面店の数は激減していたが、この政策が発表されることを見越して、糖類を使用しない0カロリータピオカドリンクを販売し始めた店舗は当初グレーだったが、結局タピオカというポップアイコン的存在が従来のタピオカドリンクの”バエ“想起させるということで、法的に販売終了せざるを得なくなっていた。

 

熱狂的な“バエ“勢とタピオカ信者によって大規模な政府反対デモが勃発し、今日も国会議事堂前を占領し、遂には警察との抗争も勃発。

かつてのバエとはいえ、彼ら彼女たちのバイブルであった存在。その時代のお洒落でカワイイの象徴を失われるということは、世代の喪失、そして否定だ!と今日もメガホンで叫び続けている。

 

タピオカに対する厳しい取り締まりも決行され、抜き打ちで家宅捜索が行われ、タピオカとなりうるものを所持していた場合、罰金または懲役刑を科すというのだ。“バエ“は既にたくさんの新しい方向性を見出していたが、ここに来て異常なまでの変化に世は大戦国時代に突入した。

 

裏ルートで売買されるようになったタピオカは、一杯2500から3500円で取引されるような代物になってしまい、時代が生み出した高級ドラッグだった。

「たかが食べ物、たかが飲み物、そう思うかもしれないが、あの弾力とミルクティーとの組み合わせは忘れた頃に摂取するとトリップしちゃうんだよ。」

と、裏で取引している若者は語る。薬物のように脳に影響はなく依存性も低い為、噂では原宿の若者が裏ビジネスとして密かに行っているらしい。

 

世の中が映えるために注目したものは一過性のものに過ぎないと思っていた。

タピオカ自体がカエルの卵だ云々と動物愛護の観点から批判されるも、多くのタピオカはこねて作られた業務用のものであったし、タピオカドリンクを撮って一口飲んだらその辺に捨てていくゴミ問題も深刻であった。バエの為に様々な議論が行われていたが、誰も世の中がこんなことになるとは思ってもいなかったのだろう。

我々は今を生きることを自分自身ではなく、誰かによって決定している。ブームというものは我々にとって生きる指針なのである。そこを逸脱できない理由はお洒落でカワイイのモデルが皆によって作られそこに賛同していったからであると思う。気付けばみんな一定の可愛いと一定のお洒落で統一され、水準は上がったものの、誰が誰だか分からなくなった。

本当の危機はタピオカドリンクで糖尿病患者急増ではないのかもしれない。

 

 

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DROWN

私は夢に溺れている。

太平洋のど真ん中を泳ぎ続けている。どんなに泳ぎ続けてもそこは真っ青な海のど真ん中で、時々力を抜いてゆらゆらと漂っている。空は水色で、絶えず雲が変化し、僕を置き去りにしては消えてゆく。

小さい頃、雲の上を歩いて行ったらどこまでも知らない場所に行けると思っていた。だが実際には水蒸気の集まりで、するりと抜けてしまうと知った時、現実というものを知った。どうして世界は飛行機なるものを作ったのか、どうして船なるものを作ったのか、その時に分かった気がした。

鳥たちは大海原を知っている。それは私たちの想像を遥か超えるところに存在し、全ての生き物を凌駕する寛大さと不寛容さを持ち合わせている。世の道理に反したものは生き残れないばかりか、食物連鎖の制裁を直ちに受ける。海を渡る彼らは止まることを許されておらず、知らぬ間に体がそうしている。まるで目指す場所がそこにあるとわかっていてそれが行われている。

私は大海原に抱かれ、そして溺れている。

海の中に入ってしまえば二度と地上の空気を吸うことができない。怖いのだ。私は、その縁をずっと漂っているから、怖いのである。海の深さは底知れず、いつ力尽きてもおかしくない今、この海を漂えば漂うほど尋常の精神は確かなものか疑わしくなる。それでいて生きている実感を感じずにはいられない。陸を求めて進化した先にヒトがいるのだとすれば、今の私は何でもない存在、何にだってなり得るのである。今日も私は何者であったかを探しては終わりの見えない場所で遠くの水平線を目指して泳いでいるが、果たして正解はどうだろうか。

これが夢の中だったらどんなに良かっただろうと、仰向けで漂う私は生まれては消えてゆく大きな雲を見つめて静かに涙する。一滴、二滴と頬の横を伝い、その涙は海の色を変える。変わったのは海ではなく、本当は私なのであるが。

その滴は魚たちがプランクトンと共に体に吸い込んでしまい次々と他の魚たちに知らされ、何者でもないもの涙を神秘的に感じる。あれはどこかの世界では涙というらしいと。

鳥たちは涙を知った魚たちを餌にして食べてはまた涙の神秘に寄り添う。これは涙というらしいと、でももどこから生まれたものかなんて知りやしなかった。それでも鳥たちはどこかを目指して海を越えてゆくのである。

私は泳いでは漂い、涙を流し、無慈悲を知る。どんなに頬を伝い知らせても孤独はそこを離れようとはしない。この大海原は赦しはしてくれないのだった。しかしながら、今日も青い空は私を大地のように抱き上げ、雲のパレードで歓迎してくれる。だが、まだ私はどこにも受け入れてもらえていない、何者でもないものとして太平洋を漂っている。

私は夢に溺れている。

夢がどのようなものでどのように崩れていくか知らないまま。それでも夢の中では生きながらえている。

果てしない大海原に抱かれながら。

 

 

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