Yuya Kumagaiのオフィシャルなブログ

ギタリストやカメラマンやロマンチストなどなどやってる熊谷勇哉による何気無いブログ。

ロマンチス党のなれ果て

まだ見ぬ景色を見ていたいが為に生きる事に社会はそう優しくない。

先駆者たちは奔走し、確立し、そして維持する為に発展をさせ、そして飽和に向かい、また真新しい需要に向き合わなければならない。その中で全てが平等にある事は厳しく、差が生まれる事によって担保される。それを人々は失う事だと思っているが、我々は失われることなんてこれっぽっちも無かった。各々のみたい景色は所詮幻想に過ぎないのだから。それはまだ見ぬものだからではなく、幻想を抱かねばそこに向けた熱量は必要以上にならないからである。

 

我々はロマンが足りていない。

生き方が急速に変化している中で、どうも許される事自体が昔よりも少し少ない気がするし、何よりも大半の人々は煽動されている事で生きている実感を得ている気がする、それは僕も然り。

2020年という字面を使用するだけで中小企業は大きな会社から問題にされるし、並外れた努力の末の代表選手に対しては同じ人間だと思ってるし、何よりもエンタメだと思っている。だがそれでいいのかもしれない。

2020年になれば、暮らしはどうこうなんてのはみんなどうだっていいと、いつだってそんな顔をする。皆人事の思いで暮らし、今日も疲れた体をお酒に溶かして、本当は対して深くも浅くもない眠りにつく。それでいい、そうするしかないのだから。

 

小さなまだ見ぬ景色はいつだって自分の隣にいる。隣人を愛せるだけの余白を人々は持ち合わせている。ただそれが己という存在を動かすだけのエネルギーになり得ないだけで、いつだってそうする事はできるのである。

でも実際はどうだろう。暮らすには時間が短すぎる、と言ってしまえば大袈裟ではあるけれど、24時間が25時間になろうが、48時間になろうが、僕らは時という概念には抗えないし、慣れてしまえばもっと欲しくなる。そう、愚かな生き物であることを忘れてはならない。そして、知恵をもっと評価すべきなのである。

 

ロマンが足りていないのだとしたら、誰かがロマンチス党を結成するのを待っては世が廃るので、己の深くに野望を秘めて暮らしたい。だがやはりスーパーマンを作り出しては何かあれば罪人としてしまい、それをただひたすら繰り返すこの常識に嫌気がさすのが常。

ああ、主よ、我々はいつになったら隣人を、そして隣人の隣人を愛せるようになれるのでしょうか、と目の前で跪く若者に出会う。

明日は我が身ですよ、あなたがしていることは誰にも言ってはいけません。でないとレイワに捕らえられてしまいます。さあ、何も言わずに去って行きなさい。さあ、早く。

その若者は込み上げるものを堪えながら静かに立ち上がり、自前のタバコに火をつけて闇に消えて行った。

僕はそれをただ見届けて、残り香を感じながらも、レイワに告げ口をするボクシを横目にこの記事を書く。

 

今やロマンチス党は秘密結社として活動を緩やかに行なっているらしいが、誰ももう抗えないところまで来ているのだとしたら世も末だとぼやきたくなる。

そんなことはないと思いたいけれど、最近はツゲグチという私立探偵が電脳世界で蔓延っているそうで、どうも皆同調がセオリーになっているそうで、これはなかなか動きが鈍るのもよく分かる。

彼らは存在するけれど、ロマンが今も圧倒的に足りていない。

愛を伝える手段は愛のカクテルが作れるバーテンダーのみが法律で許されていて、今じゃなりたい職業ナンバーワン。それでも愛のカクテルという調合が出来るだけで本当の愛はそこにない。

薔薇は花屋で買えるけれど、今や購入特典に愛が付いてこないからと殆どの人が買わなくなってしまった。夜景の見えるレストランでサプライズケーキを頼むカップルは法律で罰せられる始末。

あの頃は良かったなとぼやくのは歳上の人だけじゃなくなってしまった。

 

それでもロマンを求められないのはロマンが必要ないからか、はたまた世の流れのせいか。それは公言できないのでここでは控えておく。

もうすぐ終わりの時間がやってくるので僕は独房からこの手紙を誰かに送りたいと思う。

受け取った誰かはこれは真実だとしんじてもかまわないし、ジョークだと受け取ってもいい。ただ幸いこれを書いている今日はエイプリルフールではないから、選ぶ余地が与えられる。

さて、僕は窓からこれを紙飛行機にして遠くの何処かまで飛ばそうかと思う。

 

ロマンチストに幸あれ。

 

 

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