Yuya Kumagaiのオフィシャルなブログ

ギタリストやカメラマンやロマンチストなどなどやってる熊谷勇哉による何気無いブログ。

帰り道のエンドロール

日曜日の夜。繁華街は人でごった返し、今だけは終わらないでというような顔でみんな幸せそうだ。

そんな僕は楽器を背負いながら駅に黙々と向かっていると、誰かもわからない人の匂いがふんわりと鼻先を横切る。でも気づいた頃にはもう別の人の匂いが迫ってきた。

そういえば、都会の匂いは色々一緒になってしまって臭いなって思ってたのに今日に限ってはそれぞれの匂いがわかったのは、すれ違う度に見るあの幸せそうな顔に何か影響されたからなのか。

とにかく、無数の匂いが帰り道の僕のエンドロールになったような気がした。

 

昔好きだった子の匂いは案外覚えている。しばらく会わないうちに記憶の中で強くなっては、もう最初の形を忘れてしまった。果たしてそれがその子のものなのかはもう分からなくなっているけれど、会えば思い出すのだろうか。いや、多分だけど、あーこれこれってなって思い出したフリをするので精一杯になるのだろう。

匂いのしない人というのもいる。単に覚えていないだけだろうと思ったら意外とそうでもなくて、本当にその匂いに気付けなかっただけなのかもしれない。不思議なことにその人自身の事は良く覚えてる。

マリリンモンローはシャネルの5番を身に纏って寝ていたらしいけど、匂いっていうのはそんな感じでその人自身を表すものではないのかもしれない。

 

場面によって自分の匂いは変わるのだろうか。すれ違う人たちの顔はきっと朝になったらまた違うだろうし、繁華街の人々の匂いに包まれながら楽しんだらそれはやはり本来のその人の匂いではないかも知れない。

僕は僕だし、あなたはあなた、かもしれないけど、そんな事は自分じゃ知ることが出来ない。誰かに気付かれて誰かに影響されて、例えそれが決めつけられたことだとしても、それが知らない間に自分になっていくんじゃないのだろうか。

 

漠然とした記憶と漠然とした日常と、交差する人々のメロディ。

嗅ぎつけては見失って、記憶に残っては変わってゆく。僕の匂いは誰かに気付かれているのだろうかと歩きながら思いを馳せる。

 

歩いていけば歩く程に無数の匂いが変わるがわる挨拶をしてくる。今日は突然の挨拶も快く受け入れられるし何よりエモーションな気分になる。どこか懐かしく、人の情愛を少し感じる。今日だけの幸せをお裾分けしてもらった気分だった。

もう、自分の匂いが誰かに気付いてもらえているかなんて早々にどうだって良くなっていた。雰囲気にいつまでものまれていたいけれど、僕には僕の時間があって、あなたにはあなたの時間があると考えたりなんかして、なんとなく寂しい考え方に身を任せてしまうもんなんだなーとふんわりした自戒があった。いつだってあんな顔をしながら帰りたいものだと気付かされた。

 

人は匂いを知っているフリをするのがきっと得意だ。こんなにも漠然としたものを決めつけて、大まかに全てをまとめて考える、さっきまでの自分の様に。若いカップルも、飲み歩いている社会人も、それぞれの青の時の姿があって、顔があって、匂いがある。きっとすれ違った人たちの多くは分かっているふりをしてその先の飲み屋で気にせずに楽しむ。

 

早朝の繁華街にはコンクリートのベッドで無造作に寝ている人が見受けられるが、そんな人たちの姿というのは酷く切なげで情けなくて、それでいて人間ぽくて嫌いじゃない。きっと昨晩は楽しんだのだろうなとわかるくらいに酔っ払い潰れている。

ただ、そんな時の人たちには匂いがない。嗅いだ嗅いでない関係なく何かを失った瞬間の剥製とでも言えるくらいに、もう昨日のあなたはいないのだ。記憶と楽しく飲んでいた友人はもうその時には隣にいないし、ましてや不健康にもなる。

そんな状況だけれど、起きてしまえば意外と自分自身の匂いがなくなっていることに気付かない。まるで誰かがいないと存在しないようなものなのではないかと思うくらいに。

路上で起きた後、頻りに状況を確認し、まるでタイムスリップしてきたかのように身元を確認する。大丈夫です、生きているし、あなたの思う世界にはいるっちゃいます。ただ、あなたのフリだけはしない方がいいですよ。あとで本当の自分を取り戻した時に混乱してしまいます。

大概は後悔してしまうからなーと僕は横を通り過ぎた。

 

そんなこんなで駅に着いてからというものの、人で溢れかえった構内でまたいつもの匂いに戻った。繁華街は今日も人の中の何かが弾けたような音で溢れかえっていたのに、僕はそこの中でそれを聴いているだけだった。

魔法が解けてしまったのだとしたら、今日の出来事はちょっぴり幸せな瞬間だったのかも知れないと、今になって思い出してほころぶのであった。

 

突然終わってしまったエンドロールの先に、また違ったエピローグがそこにはたくさん溢れている。

 

 

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ロマンチス党のなれ果て

まだ見ぬ景色を見ていたいが為に生きる事に社会はそう優しくない。

先駆者たちは奔走し、確立し、そして維持する為に発展をさせ、そして飽和に向かい、また真新しい需要に向き合わなければならない。その中で全てが平等にある事は厳しく、差が生まれる事によって担保される。それを人々は失う事だと思っているが、我々は失われることなんてこれっぽっちも無かった。各々のみたい景色は所詮幻想に過ぎないのだから。それはまだ見ぬものだからではなく、幻想を抱かねばそこに向けた熱量は必要以上にならないからである。

 

我々はロマンが足りていない。

生き方が急速に変化している中で、どうも許される事自体が昔よりも少し少ない気がするし、何よりも大半の人々は煽動されている事で生きている実感を得ている気がする、それは僕も然り。

2020年という字面を使用するだけで中小企業は大きな会社から問題にされるし、並外れた努力の末の代表選手に対しては同じ人間だと思ってるし、何よりもエンタメだと思っている。だがそれでいいのかもしれない。

2020年になれば、暮らしはどうこうなんてのはみんなどうだっていいと、いつだってそんな顔をする。皆人事の思いで暮らし、今日も疲れた体をお酒に溶かして、本当は対して深くも浅くもない眠りにつく。それでいい、そうするしかないのだから。

 

小さなまだ見ぬ景色はいつだって自分の隣にいる。隣人を愛せるだけの余白を人々は持ち合わせている。ただそれが己という存在を動かすだけのエネルギーになり得ないだけで、いつだってそうする事はできるのである。

でも実際はどうだろう。暮らすには時間が短すぎる、と言ってしまえば大袈裟ではあるけれど、24時間が25時間になろうが、48時間になろうが、僕らは時という概念には抗えないし、慣れてしまえばもっと欲しくなる。そう、愚かな生き物であることを忘れてはならない。そして、知恵をもっと評価すべきなのである。

 

ロマンが足りていないのだとしたら、誰かがロマンチス党を結成するのを待っては世が廃るので、己の深くに野望を秘めて暮らしたい。だがやはりスーパーマンを作り出しては何かあれば罪人としてしまい、それをただひたすら繰り返すこの常識に嫌気がさすのが常。

ああ、主よ、我々はいつになったら隣人を、そして隣人の隣人を愛せるようになれるのでしょうか、と目の前で跪く若者に出会う。

明日は我が身ですよ、あなたがしていることは誰にも言ってはいけません。でないとレイワに捕らえられてしまいます。さあ、何も言わずに去って行きなさい。さあ、早く。

その若者は込み上げるものを堪えながら静かに立ち上がり、自前のタバコに火をつけて闇に消えて行った。

僕はそれをただ見届けて、残り香を感じながらも、レイワに告げ口をするボクシを横目にこの記事を書く。

 

今やロマンチス党は秘密結社として活動を緩やかに行なっているらしいが、誰ももう抗えないところまで来ているのだとしたら世も末だとぼやきたくなる。

そんなことはないと思いたいけれど、最近はツゲグチという私立探偵が電脳世界で蔓延っているそうで、どうも皆同調がセオリーになっているそうで、これはなかなか動きが鈍るのもよく分かる。

彼らは存在するけれど、ロマンが今も圧倒的に足りていない。

愛を伝える手段は愛のカクテルが作れるバーテンダーのみが法律で許されていて、今じゃなりたい職業ナンバーワン。それでも愛のカクテルという調合が出来るだけで本当の愛はそこにない。

薔薇は花屋で買えるけれど、今や購入特典に愛が付いてこないからと殆どの人が買わなくなってしまった。夜景の見えるレストランでサプライズケーキを頼むカップルは法律で罰せられる始末。

あの頃は良かったなとぼやくのは歳上の人だけじゃなくなってしまった。

 

それでもロマンを求められないのはロマンが必要ないからか、はたまた世の流れのせいか。それは公言できないのでここでは控えておく。

もうすぐ終わりの時間がやってくるので僕は独房からこの手紙を誰かに送りたいと思う。

受け取った誰かはこれは真実だとしんじてもかまわないし、ジョークだと受け取ってもいい。ただ幸いこれを書いている今日はエイプリルフールではないから、選ぶ余地が与えられる。

さて、僕は窓からこれを紙飛行機にして遠くの何処かまで飛ばそうかと思う。

 

ロマンチストに幸あれ。

 

 

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水槽の肴

人で溢れかえったクラブの端で、会話の断片が永続的に聞こえてくる。置き去りになっているわけでもなく、一人でいるのを好んでいるわけでもない。ただそこに居合わせただけの何者かでしかない。

とりわけ悲しいわけでもなく、一人になれた喜びがあるわけでもなく、ただ全てが背景になっていくのを感じる。ただ、そこに居合わせてしまっただけの何者かなのである。

一杯のドリンクを途中までちびちび飲んでいたら、気づけばあそこの席にいた人たちが変わっていた。またちびちび飲んでいると、今度はこっちの席の人が変わっていた。同じとこに居続けていたのは僕だけだった。

 

目の前に大きな水槽があるのに気付いた。綺麗に彩られた水草や岩がゴージャスに思わせた。

大きな水槽の内側に暮らしていると魚たちは外の暮らしに目がいくのだろうか。毎日同じルーティーンになることを同じだと思っているのだろうか。我々よりも時の流れが早くて全てが変化に感じられるのだろうか。

となりの水槽は青く見えるのだろうか。

 

時々彼らは近寄ってきてはエサを欲していたり、種類によっては本能なのか食べるそぶりをする。ガラス越しに求められる欲求は僕らでは解決できないと手放せば、何事もなかったかのように諦めてあっちへ行ってしまう。

もし、例えば、多分、きっと、そんな言葉に引き寄せられていてはランチのフィッシュフレークはふやけたものを食べることになるんだろう。彼らは重々わかっているのだろう。全ては空腹のため、それ以上でもなければそれ以下でもない。

 

ある日水槽を掃除するタニシが自分だけが外を覗ける場所を作るためにせっせと動いた。これでどうだと何度もチャレンジするが、結果は同じだった。これ以上動くと自分がどうにかなってしまうと思ったタニシは水槽で生きることを諦めてフィッシュフレークを食べるために鍛え始めた。

 

タニシは魚になるべくまずは壁にはいつくばるのをやめた。なるべく自由に動くためだ。しかしそう簡単に出来るわけなかった。なので、より早く移動できるように相当動かした。

魚には劣るが、移動はタニシ1になれた。

タニシ1の移動速度は相当労力が必要なので、その分水槽が綺麗になっていくのを感じたタニシは、今の俺がいるから比較的綺麗でいられんだぞ、と自尊心を持つようになった。たしかに隣の水槽よりは青い。

ただ、まだまだタニシなのでもっと魚になるために泳げるようになろうと決心する。

するとどうだろうか、まるでクリオネのようにじんわりと水の中を動いていくではないか。尋常じゃない筋力を手に入れたためにタニシの枠をはみ出ていった。

だがまだまだエサを取り合うほどの力がないタニシは次なる作戦を決行する。

体を大きくすればあの小魚には勝てるんじゃないかと思いつく。だがエサの取り合いは壮絶で彼らでさえもエサを確保するのが困難だったようで、疲れ切った小魚にタニシは問いかけた。

「どうしてお前らはそんなにフィッシュフレークを食べ争うんだ。仲良くやろうじゃないか。」すると小魚は「仲良くなって食べたいだけじゃないのか?お前こそ最近コソコソ俺らの真似をしているそうじゃないか。」、「泳いで何が悪いんだ。こっちはな、水槽綺麗にしながら鍛えてんだ。ありがたみ足りてないんじゃないの?」、小魚は呆れてしまい仲間の方に行ってしまった。

 

次の日からタニシはタニシと言わんばかりに小魚がエサを食い尽くす。郷に従えなかった末路はとんでもなく茨の道で、また水槽を綺麗にするしかなくなった。ただ、この尋常じゃない筋肉を持て余すのはなにか勿体ない気がして、ありとあらゆる藻を食べるようになった。

すると驚くべきことが起こった。

藻を食べ過ぎて光合成をし始めた。

最初は何が何だかわからなかったが、これが人間のいう光合成なのだとしたらもしかしたら食べなくたってやっていけるかもしれないと思い、遂にはエサを狙うのもやめて、すっかり大人しくなった。

ただ、じっとしているのはつまらないので、筋力を維持しつつ、光をなるべく吸収し、それでいて清掃を完璧に行った。

魚たちは年老いていき、それでも同じルーティンを行い続けてた。

 

ある日、一匹の魚が水面に浮かんでいるのを見つけた。水槽の魚たちは今日も変わらず泳いでいる。

タニシは浮かんでいる魚に近づいて話しかけた。何も返してはくれなかった。急に寂しく悲しい気持ちに溢れ、でも目の前で何が起こっているのかはわからなかった。

次の日も彼はまだずっと浮かんだままだった。

同じルーティーンを続けられなくなったものは次はこうなってしまう、そう感じたタニシは急に焦燥感に襲われた。

 

そうこうしているうちに顔馴染みの魚たちは減っていき最後にはタニシだけになってしまった。

いよいよ、同じ運命を辿るのだと。ぷかぷか浮かぶようになったら人間がどっかに運んでいってしまって、行方不明になる。どんなに抗っても奴らは毎回運んでいくし、まあもう抗うことも誰もしていなかったのだけれど、1人になってなんとなく気付いた。

 

今までこの水槽で暮らしてたけど、たくさんの魚で溢れかえったこの水槽の端で、会話の断片を毎日同じように聞いてきた気がする。

置き去りになっているわけでもなく、一人でいるのを好んでいるわけでもない。ただそこに居合わせただけの何者かでしかなかった。

とりわけ悲しいわけでもなく、一人になれた喜びがあるわけでもなく、ただ全てが背景になっていくのを感じる。ただ、そこに居合わせてしまっただけの何者かなのかもしれない。

 

そろそろ飲み終わりそうなドリンクを横目に、楽しそうに帰っていく客を眺める。楽しい、それだけで十分だから、きっと自分も楽しかった。

 

いつだって自分は自分でしかいられないから、今日はそこに居合わせてしまっただけと。

 

 

 

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天使と悪魔

今日はいい日だったなと思う時っていうのはきっと幸せを噛み締めているんだけど、心のどこかで早く切り替えたい気持ちが沸き起こる。

心の中で天使か悪魔かは分からないけれど、もう一人の僕が静かに語りかけてくる。どんなにハードにタイトに暮らしてても怠けたい気持ちは顔をしっかり覗かせてくるので出来ればそいつが遠くの曲がり角を曲がる前に巻かなきゃいけない。

とはいえ、噛み締める気持ちは無ければもっと悲惨で、切り替えがとにかく大事だと思ってる。

 

天使と悪魔の僕が現れるのはいつだって醜い姿になっている時だと思う。愛したいものを愛し、守るものを守る、そういったことが素直にできない時、自分の未熟さを思い知る。

バナナマンの日村さんが最近よく怒ってしまう(イラっとしてしまうだったか、、、?)というのに対して、設楽さんがそれはそのことに対する心のストックが無いからというのがたまに思い出されるのだけど、僕はアウトが怒りではなく自身に対する懐疑に向かっているだけなのかもしれない。

 

天使と悪魔っていうのはずいぶん都合のいい存在で、そいつらに任せてしまえば大体のことが面白おかしくなる。あいつらはどうも適当で思いっきりがいいし、時にうだうだしていて僕が思いっきりよくなれる。

漫画のように突然現れては、こっちにしてしまえと悪魔が囁き、こっちにしてはダメよだって○○だぞって天使が入ってくる。

 

 

もうこの時点で僕は面倒くさくなる。

 

 

そうなんだよ面倒くさい。

面白いくらいにあいつらは助言してくる。

ただただお節介だし、そんなん自分で決めるわってなるだけでなく、何を悩んでいたのかってなる。そこで天使と悪魔を召喚している自分も面倒くさいって思うし、尚更サッパリした判断になる。

全て3秒の出来事である。

 

ダンブラウンの描いた世界観に引き摺り込んでもまた面白いけれど、それにはダビンチが必要になるからそれも面倒くさいし、渡航する面倒臭さもある。

段々と素直になっていった方が世の為人の為己の為になり、それが良いじゃんとなる。

今日の幸せは今日しか訪れない。だったらそれはちゃんと噛み締めて、忘れないように、そして欲にまみれず、精進料理を食す時のように旨味と感謝だけに想いを馳せて行けば良いじゃないか。雨にも負けず風にも負けず的な精神で暮らして行けたらと考え始めた時点で日は跨ぐ。

 

こうして明日が今日になってしまったらまた今日の幸せを見つけていこうと思うのがルーティンになりつつあるのは、この歳だからであろうか。

未だ夢の途中なのでまた眠りについてその続きを見に行きたい。

悪魔も天使も眠ってしまう間だけ、自分は自由になれるのだから。

 

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ユートピアに恋い焦がれて

Missy Elliottが1stAlbum「Supa Dupa Fly」を作る際に他の流行の音楽をシャットアウトした状態で制作したらしく、正確に言えばシャットアウトが出来る環境だったというのが大きかったそうだ。1997年リリースのこのアルバム、時代は携帯電話がようやく小型になってきて、インターネットもようやく世界規模になって普及が加速し始めたような時代。今聴けばあまり大きな違和感を感じはしないけれど、確かに相当面白い試みが行われていたんだなと思う。

 

今コンテンツも増えて個々が好きなものを手を取りやすくなって、そしてまた、好きなものをを手放し捨てることも容易になった。

ものが増えれば増えるほど使わないものは増えるし、大掃除すれば大概のものは捨てるか思い出に浸るか、そうやって塗り替えられていくのを無意識に行っていく。

同じようなコンテンツの中で小さな差を競合い、そうするとまたそれを取り入れたものでより小さな差を生み出し、気付けば違いなんて誰にも分からなくなってどれでもよくなる。

 

この頃“どれでもいい”が増えてる。憧れの生活も、食べるものだって、かわいいもかっこいいも、なんだって“どれでもいい”に溢れてる。

時代特有の匿名性が人々の一部を蝕んでいるというか、現実との境目に理由がないまま成ってしまっているという感じだろうか。そして外から見れば空しい事、も当の本人はそこそこ満たされているというのもまた救いようがない。

 

僕もまた沢山のものが何十箇所に溢れてる豪邸に住んでいるようなうちの1人で、これまた救いようがないなーと自分で思う。

ペルシャ絨毯の上で長いテーブルにロウソクのインテリア、高級な椅子が並ぶ中、朝食は味噌汁とパックの納豆といつから使っているか分からぬ茶碗に白米。食べ終わって少ししたら館内を散歩して寄り道した挙句、焦って仕事に出かける準備、もちろん自分にしか着れないコーディネートでスイッチ切り替えて豪邸を出る。

昼飯はそんな格好でラーメンかっ込んで一服がてらの3rd wave系のスタンドコーヒーで極上のルワンダを嗜む。

夜になれば社交場でダンスを踊り、足を間違えてもウィンクで誤魔化して談笑を楽しむ。ディナーはいつだって異国の雰囲気が漂う個室で旧友と世間話、そして豪邸に着けば「今日もなにかが足りなかった」とため息を一つ。大きな敷地のホコリは増えていくばかり。

 

便利になるということが不便になるということなら、こんな不幸せなことはない。昭和は憧れだったりヒーローがいたのかもしれないけど、少なくとも平成にヒーローはいなかった。なれないものがなるんじゃないかとなり、会えないが会えるようになった。もう誰もユートピアには興味がないんだ。そうしてユートピアは未開の遺跡になって、そのままその神秘は弄ばれる。たがためにを連呼するMr.ChildrenでさえもうMr.Childrenではないのかも。

 

自分の話ではあるけれど、ソロとしての音楽制作を始めてプロジェクトはもう数年が経とうとしてる。時代にずいぶん流され、その内容はあっち行ってはこっち行ってでいろんな記憶に足跡を残した。それでもざっと聴いてみると自分だなーと思うのは、こんな時代のオリジナルのあり方なのだろうか。

 

流行り廃りを気にしながらも、結局何かは変わっていないというのを残されたもので確認して言い聞かせる。そろそろまとめに入ってもいいんじゃないかというところでまた、ペルシャ絨毯の上でダージリンに想いを寄せる。いつになったら四畳半の幸せを手に入れられるのか、なんて考えながら今日もまた広大な敷地で足踏みをするのだと思う。

それでも自分の音楽は辞めようとは思わないのだから、こりゃまた救いようがないったらありゃしない。

 

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北海道の水は美味しい

気付きが連続する時期っていうのがあるんだけど、体感の時間経過が遅いと整理するのが大変。

久しぶりに書くけど、出来ればちゃんと書きたいけれど、まあつらつらと。

 

人間は視覚情報の多くをシャットアウトして対象のものを見ているようで見ていないというのをとある記事で見て、普段の見疲れというかそんな感覚はこれなんだろうなと感じた。

文章を見ると目まぐるしく脳内を駆け回る感覚、小さな画面から様々な人間の様々な吐露を様々な時間に見ているとそれは、誰に向けたものでもない途方にくれた言葉が亡者のように見えた。そんなものに心がチクリとして、良いものはそれとして受け入れ、だんだんと何かに囚われているような気がしてきてしまった。

我々は人生のうち睡眠で数年も使ってしまうし、今じゃケータイ電話にさらに数年を使っているし、そんな数年がそれ以外の数十年の一部に大きく影響しているというのが馬鹿馬鹿しく感じた。

それでも僕らは辞めることが出来ない。

 

先日同窓会に顔だして久々に会う旧友たちに「今何をやってる人なの?」と多く聞かれた。そりゃそうだ、今まで会えてもないし会おうともならなかった人たちが知ってるわけない。

どんなに頻繁にいろんなの更新してたって見ないもんは見ないし、広まらないものは広まらないし。何の為にやっているのかがあんまり分からなくなっているのも現状ではあるけど、とにかく今の自分のSNSの使い方はあてにならんのだなと思った。

早くMステのニューカマーみたいなコーナーに出るの楽しみにしてるよって言われた時に、今の自分は惑ってるのかもしれないなとも思った、そういう活動をしたいと思っている気持ちが強いだけに。

この半年間いろんな縁を形に残していきたいと思ってやってきたけれど、自分が何者かを自身に多々問いただしてしまっていたとふと思った。僕はただの音楽屋であるし、写真撮りになりたい写真撮りだし、コーヒー屋開きたいコーヒー好きになりたいコーヒー好きだし、僕自身がやりたいということは僕がちゃんとやらせてあげたい。ただそれだけ。その気持ちを忘れていってしまっていた気がする。

それでも何者かを探してしまうからこれも辞められないのだろう。

 

先日北海道に数日行ってきたのだけれど、Tokyo人は何かを失いつつあるのだと確信した。僕らは目まぐるしい小さな流行の変化を横目に変わりゆく街並みに慣れていき、それが世の主流だと無意識に勘違いをしているし、それでいいと思っている。まあ確かにそれでいいと思う、いや思っていた。

帯広の人々は皆人の心を持って人同士でコミュニケーションをとっていて、人生感じた。流行が隆起しては廃るこの大都市では多くの人々が何かを隠しているし、何かを愛しているふりをしているし、とにかくチャットのような会話が得意でコミュニケーションがとれないことが多い。札幌では小さな新宿というか、若者の活力と仕事帰りの社会人が混ざり合って物凄い活力を感じた。ただ、なんとなく平和な世界だった印象だった。北の地に行った数日間の居心地の良さを今も思い出してしまう。水の美味しさも。

このままでは自分の中の何かを辞めてしまう気がしてたことに気がついた。

 

 

忘備録としてしたためては、これもまたいつか観点が違うものになってしまうかもしれない。ただ、ネガティブなことではなく、気付きの連続であったということ、それだけが残ればいいと思った。北海道にまたいきたいな。

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