Yuya Kumagaiのオフィシャルなブログ

ギタリストやカメラマンやロマンチストなどなどやってる熊谷勇哉による何気無いブログ。

北海道の水は美味しい

気付きが連続する時期っていうのがあるんだけど、体感の時間経過が遅いと整理するのが大変。

久しぶりに書くけど、出来ればちゃんと書きたいけれど、まあつらつらと。

 

人間は視覚情報の多くをシャットアウトして対象のものを見ているようで見ていないというのをとある記事で見て、普段の見疲れというかそんな感覚はこれなんだろうなと感じた。

文章を見ると目まぐるしく脳内を駆け回る感覚、小さな画面から様々な人間の様々な吐露を様々な時間に見ているとそれは、誰に向けたものでもない途方にくれた言葉が亡者のように見えた。そんなものに心がチクリとして、良いものはそれとして受け入れ、だんだんと何かに囚われているような気がしてきてしまった。

我々は人生のうち睡眠で数年も使ってしまうし、今じゃケータイ電話にさらに数年を使っているし、そんな数年がそれ以外の数十年の一部に大きく影響しているというのが馬鹿馬鹿しく感じた。

それでも僕らは辞めることが出来ない。

 

先日同窓会に顔だして久々に会う旧友たちに「今何をやってる人なの?」と多く聞かれた。そりゃそうだ、今まで会えてもないし会おうともならなかった人たちが知ってるわけない。

どんなに頻繁にいろんなの更新してたって見ないもんは見ないし、広まらないものは広まらないし。何の為にやっているのかがあんまり分からなくなっているのも現状ではあるけど、とにかく今の自分のSNSの使い方はあてにならんのだなと思った。

早くMステのニューカマーみたいなコーナーに出るの楽しみにしてるよって言われた時に、今の自分は惑ってるのかもしれないなとも思った、そういう活動をしたいと思っている気持ちが強いだけに。

この半年間いろんな縁を形に残していきたいと思ってやってきたけれど、自分が何者かを自身に多々問いただしてしまっていたとふと思った。僕はただの音楽屋であるし、写真撮りになりたい写真撮りだし、コーヒー屋開きたいコーヒー好きになりたいコーヒー好きだし、僕自身がやりたいということは僕がちゃんとやらせてあげたい。ただそれだけ。その気持ちを忘れていってしまっていた気がする。

それでも何者かを探してしまうからこれも辞められないのだろう。

 

先日北海道に数日行ってきたのだけれど、Tokyo人は何かを失いつつあるのだと確信した。僕らは目まぐるしい小さな流行の変化を横目に変わりゆく街並みに慣れていき、それが世の主流だと無意識に勘違いをしているし、それでいいと思っている。まあ確かにそれでいいと思う、いや思っていた。

帯広の人々は皆人の心を持って人同士でコミュニケーションをとっていて、人生感じた。流行が隆起しては廃るこの大都市では多くの人々が何かを隠しているし、何かを愛しているふりをしているし、とにかくチャットのような会話が得意でコミュニケーションがとれないことが多い。札幌では小さな新宿というか、若者の活力と仕事帰りの社会人が混ざり合って物凄い活力を感じた。ただ、なんとなく平和な世界だった印象だった。北の地に行った数日間の居心地の良さを今も思い出してしまう。水の美味しさも。

このままでは自分の中の何かを辞めてしまう気がしてたことに気がついた。

 

 

忘備録としてしたためては、これもまたいつか観点が違うものになってしまうかもしれない。ただ、ネガティブなことではなく、気付きの連続であったということ、それだけが残ればいいと思った。北海道にまたいきたいな。

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